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2007年 UK
4.5 /5点満点

ロンドンの首都警察に勤めるニコラス・エンジェルは、大学を首席で卒業し、警察学校でもトップの成績を残し、検挙率もトップで幾度もの表彰を受けた頭脳明晰でスポーツ万能なエリート警察官。ところが彼はその余りの有能さゆえ、上司や同僚から迷惑がられ、田舎町サンドフォードに左遷させられてしまう。
ほとんど犯罪など起こらないサンドフォードでニコラスを待っていたのは、呑気でいい加減な仲間たちと共に退屈な仕事に従事するばかりの日々。首都警察の頃と同じ調子で真面目に働く彼は周囲と馴染めず、ここでも浮いた存在になっていく。しかし、この一見平穏な村には、ある恐ろしい秘密があった。(wikipediaより)

ニコラス・エンジェルに、『恋愛上手になるために』のサイモン・ペグ。
ダニー・バターマンに、『キンキーブーツ』『ペネロピ』『パイレーツ・ロック』のニック・フロスト。
フランク・バターマン署長に、『アイリス』『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 』『アートスクール・コンフィデンシャル』 『パディントン』のジム・ブロードベント。
アンディ・ワインライト刑事に、『ウィッチャーの事件簿』のパディ・コンシダイン。
首都警察の巡査部長に、ドラマ『SHERLOCK』『The Office』、『マーティン・フリーマンのスクール・オブ・ミュージカル』 『恋愛上手になるために』『ホビット』シリーズ、『こわれゆく世界の中で』のマーティン・フリーマン。


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本作は巷の評判が良く、キャストもユニークな英国俳優が揃っているということで、観る前から面白い事は判りきっていた作品。で、いざ観てみるとやはり面白く、且つ想像以上にぶっ飛んだ映画なのでした。
全体的に非常にコミカルで、テンポも軽妙。凄く笑える内容なのだけれど、コメディだけじゃなくミステリにもサスペンスにもなっていて、そういう意味でも面白かったです。

主人公は、"有能過ぎて左遷"されてしまったという、なんとも憐れな生真面目警官・エンジェル。そして彼が赴任した田舎町サンドフォードは、英国でもトップクラスで犯罪率が低い町。ところが、着任早々、町では幾つもの不可解な死亡事故が発生します。エンジェルは殺人事件ではないかと疑うのですが、警官も町の人々も、"事故に決まってる" "殺人だなんて大袈裟だなぁ、ただの事故さ"と言って取り合わない。事故はどれも猟奇的なものばかりなのに、彼らの口ぶりはおそろしく呑気なもので、呆気に取られてしまうエンジェル。
然し不気味なのは、人々が口を揃えて言う、"この町じゃ事故はしょっちゅうあるのよ"という台詞。そう、実はこのサンドフォードにはある陰謀が渦巻いており、恐ろしい殺人事件も「事故」として処理され続けていたせいで、犯罪率が低かっただけなのです。で、当初は署で孤立していたエンジェルも、やがてダニーという良き相棒が出来、最後には二人で町に渦巻く不穏な陰謀に対峙していく、という痛快なストーリー。

何が面白いって、まずそれまではロンドンでバリバリ働いていたエンジェルが、サンドフォードに来て"田舎の洗礼"とでも言うべきもの(何処も彼処も長閑すぎ、誰も彼もが呑気すぎる)を受け、呆れたり戸惑ったりする様子が愉快です。それでも真面目に任務をこなそうと、通報を受ければ必死な顔で村人のペットの白鳥を追いかけ回したりする彼の姿が、また堪らなく可笑しい。
相棒のダニーも良いキャラクターをしていて、陽気なおデブちゃんであり見るからに三枚目であるところのダニーと、真面目一本のストイックなエンジェルとのとぼけた掛け合いは、格別に面白い。固より本作は台詞が抜群にコミカルで、特に絶妙なツッコミが随所で光っておりました。
そうかと思えば、例の殺人事件(事故)はどれもわざとホラー風味で描かれていたり、終盤では突然、西部劇宛らの大仰な銃撃戦やアクションシーンが展開されたり。この映画、大真面目な顔をして馬鹿馬鹿しい事をやりたい放題です(笑)。個人的にはそうした滑稽趣味がいたくツボにハマり、最近観た作品の中でもとりわけお気に入りの一本となりました。


なおビル・ナイ先生及びマーティン・フリーマンはちょい役での出演です。

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二人ともしっかり笑いを取ってくれていたけど、でも折角この二人が出てるんだから、もっと活躍するところが見たかったな~。




by canned_cat | 2016-02-26 20:27 | UK映画 | Comments(0)

『やさしい本泥棒』


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2013年 USA/ドイツ
4.5 /5点満点

第二次世界大戦前夜のドイツ。主人公の少女・リーゼルは、赤狩りによって追われる身となった母親の許を離れ、子供のいないフーバーマン夫妻の里子となる。養母のローザは何かとリーゼルに辛く当たるが、養父のハンスは彼女に温かく接し、毎晩本を読んでやっては、まだ読み書きも出来なかったリーゼルに字を教えてやるのだった。
それから数年の月日が経ち、今ではすっかり読書が大好きになったリーゼル。厳しい検閲下にあるドイツでは、子供が夢中になれるような面白い作品はなかなか手に入らなかった。が、それでも彼女は、ナチスが廃棄処分にした書籍の燃え残りをこっそり持ち帰ったり、お使いに行った先の町長の家で、亡くなった息子の遺品だという小説を密かに見せてもらうなどして、読書に耽っていた。
然しそんな時、ナチスから命からがら逃れてきたユダヤ人の青年・マックスが、フーバーマン家を頼ってやって来る。彼はハンスの嘗ての恩人の息子であり、一家は彼を地下室に匿う事にしたのだったが……。

リーゼル・メミンガーに、『ぼくたちのムッシュ・ラザール』のソフィー・ネリッセ。
ハンス・フーバーマンに、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、『英国王のスピーチ』『シャイン』『テイラー・オブ・パナマ』『ケリー・ザ・ギャング』のジェフリー・ラッシュ。
ローザ・フーバーマンに、『オレンジと太陽』 『戦火の馬』 『ゴスフォード・パーク』のエミリー・ワトソン。


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いつもの事ながら、あまり予備知識は仕入れずに鑑賞した。私が本作について事前に知っていたのは、WWⅡが舞台であること、3人の親子が物語の中心であること、それから、どうやら善良な目的で本を盗む「やさしい本泥棒」が出てくるらしいということだけ。だからきっと、食うや食わずの戦時中にあって、読書好きの娘のために心優しいパパが何処かから本を失敬し、娘はその本たちから叡智と勇気を学んでいく、そんな風なお話なのかと思っていた。

然し実際の内容は、それとはかなり趣を異にしていた。
まず、主人公のリーゼルとフーバーマン夫妻には、血の繋がりがない。彼女は夫妻の里子になる前に、実の母親と離れ弟も亡くすという大きな試練を味わわされた、幼き苦労人なのだ。
それに、本泥棒は父親ではなく、リーゼル本人だった。彼女はユダヤ人青年のマックスと、本を通じて心温まる友情を育んでゆくのだが、そのマックスが病に臥せってしまった事で、彼を元気づけようと町長の家から本を拝借してきて、毎日読み聞かせてあげるのである。
そして、本作の語り手はなんと「死神」。姿こそ現さないけれども、人間の死を掌る者だと名乗る男が度々ナレーターとして登場し、戦争という形を借りてリーゼルの周囲を不穏にうろついては、不思議な事に彼女達を見守りもするのだ。
そんな中、作中では家族愛・友情・反戦・ホロコースト・人道主義など、様々なテーマがめくるめいて展開される。と言っても、詰め込みすぎという感じは決してしない。どのテーマも、ちゃんと大切に扱われていたと思う。初めはおっかない継母に見えたローザが実は愛情深い人だったり、リーゼルは隣家に住む勇敢で優しい男の子・ルディと、子供時代ならではのきらきらした美しい友情を築いたりと、素敵なエピソードもふんだんに盛り込まれていた。

正直に言えば、「本泥棒」や「死神」といった特徴的な設定を、この作品が最大限に活かしきれていたとは思えない。勿体ないという程ではなかったが、惜しかったな、という印象だ。
或いはまた、本作はほぼ全編英語で語られるのだけれど、所々で僅かにドイツ語も混じるせいで、「何故この時代のドイツ人が敢えて英語で喋ってるの?」と、些か混乱もさせられてしまった(端から英語オンリーなら、「ドイツ語を喋っているという体の英語」なのだろうと、納得も出来たのだが)。
でも、それでも佳い作品だったと思う。幾つもの重要なテーマを自然な流れで上手く一本のストーリーに纏め上げていたし、名優ジェフリー・ラッシュやエミリー・ワトソンは勿論のこと、リーゼル役のソフィー・ネリッセも、ルディ、マックス役の俳優も、誰も彼もが素晴らしかった。
何より、どのエピソードも愛や善意の押し売り風ではなく、生身の人間の温かさを感じられるものだったのが良い。喩えて言うなら、寒さに震えている時、誰かが脱いで貸してくれた上着のような温か味だろうか。暖房やヒーターのように物理的に寒さを吹き飛ばせはしないけれど、心の底からこの温もりに縋っていたいと思える、あの温かさ。それが、この作品にはあった。戦争という暗く厳しい時代をはっきりと観客の脳裏に刻みつけつつ、寒さに凍えそうになった彼らの心にそっと暖かい上着を掛けてやる、そんな映画だったように思う。




by canned_cat | 2016-02-14 20:23 | その他地域映画 | Comments(0)


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2014年 ニュージーランド/USA
4.8 /5点満点

現代の社会で一緒に暮らしているヴァンパイアたちの日常をモキュメンタリータッチでつづるホラーコメディー。それぞれに個性豊かなヴァンパイアたちが織り成す愉快な暮らしぶりや、共同生活の行方を描く。(シネマトゥデイより)

ニュージーランドの首都・ウェリントンに在るとある不気味な屋敷に、ある晩ドキュメンタリーの取材班がやって来る。そこに暮らしているのはなんと4人のヴァンパイア、ヴィアゴ(379歳)、ヴラド(862歳)、ディーコン(183歳)、そしてピーター(8000歳)だ。取材班は予め彼らに命の安全を保障してもらった上で、特別にヴァンパイア達の共同生活を密着取材する許可を得たという。
4人は表向きはその正体を隠しつつ、昔ながらのヴァンパイアの風習に則り、日の光を避けて夜に活動し、度々人間を家に連れ込んでは餌食にし、自由気ままなヴァンパイア生活を仲良く謳歌していた。取材班はそんな彼らの生態を、余すところなくカメラに収めていく。
けれどもある日、彼らに新しい仲間が加わる事になった。当初は殺すつもりで捕獲してきた筈が、ピーターに噛まれて血を吸われた後も運良く(若しくは運悪く)死なずにヴァンパイアと化した若者、ニックだ。ニックはたちどころにヴァンパイアの生活に馴染むと、更にステューという心優しくITにも詳しい人間の友人を屋敷に招き入れ、それまでは甚だしく時代遅れだったヴァンパイア達の生活に、現代のテクノロジーを持ち込んでみせた。
こうして、友人が増え生活も格段に便利になった事で、初めはこの新しい変化を歓迎していた4人のヴァンパイア達。だが、ニックとステューの存在は、やがて彼らに大きな悲劇を齎す事になるのだった……。

ヴィアゴに、タイカ・ワイティティ。
ヴラドに、ジェマイン・クレメント。
ディーコンに、ジョナサン・ブロー。
ピーターに、ベン・フランシャム。


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ヴァンパイア達の共同生活を描いたコメディ映画、という触れ込みを聞いた時には、さしずめハリウッド映画なんかでジョニー・デップあたりがやりそうな、派手なエンターテイメント作品なのかと思っていた。が、豈図らん乎、本作は良い意味でその予想を完全に裏切る内容だった。何しろこの映画は最初から最後まで、モキュメンタリ―になっているのである。

「モキュメンタリ―」であるからして、当然、作中で展開されているのはあくまでも架空のドキュメンタリーだ。要は、ヴァンパイアを取材したドキュメンタリーという「体で」ストーリーが進むだけ。それでも、偽物ではありながら、敢えてかなりリアルなドキュメンタリー番組っぽく作ってあるところが、この作品のミソである。取材対象がヴァンパイアである事を除けば、ごく真っ当なドキュメンタリーとして成立していると言ってもいい。
だが勿論、そこに登場するのは他でもない「ヴァンパイア」だ。そして、彼らがもっともらしい顔つきでインタヴューを受けたり、カメラに向かって自分がヴァンパイアになったいきさつを鹿爪らしい口調で語ったりするもんだから、どうしたって笑ってしまう。つまるところ本作は、のっけから人を喰ってかかっているとしか思えない、良作ナンセンス映画なのだ。
更には、そのヴァンパイアがカメラに向かって、"おはようございます。現在夜の6時です。これから、ルームメイト達を起こしに行きたいと思いま~す"なんて言ってそれらしく屋敷の中を案内したり、はたまた人間の血を吸うところを実演してみせたり、かと思えばうっかり頸動脈に噛みついてしまって血が大量に吹き出し、"しまった! んもう、たまにやっちゃうんだよなぁコレ……"などと嘆いてみせたり。兎に角一部始終がとことんシュールで、堪らなく可笑しい。
リアルなモキュメンタリ―映画である分、確かに大衆娯楽作品のような華やかさや明快さは存在しない。然し、その代わりこの作品には、大胆に観客を担いでみせる度胸と、滑稽趣味と、気の利いたブラックユーモアがある。お蔭で私は数え切れないほど笑わされ、この映画がいたく気に入ってしまった。海外の映画祭では複数の観客賞を受賞しているとの事だったが、それもむべなるかな、である。


さて本作の面白さは、このモキュメンタリ―という斬新な手法だけには止まらない。
例えば、"鏡に姿が映らないからファッションチェックが出来ない"とか、"他人の家には招かれないと入れないから、行きたいお店にもなかなか入れない"といった、数々の"ヴァンパイアあるあるネタ"なんかもその一つだ。
そういえば、以前アメリカのTVドラマ『ビッグバン★セオリー』でも、「ヴァンパイアは鏡に映らないのに、どうやって髭を剃るんだ?」という話題が出ていたっけ。因みにドラマの中でのその疑問に対する結論は、「小奇麗なヴァンパイアは互いに互いの髭を剃り合っている」というものだったが、まさにそうしたヴァンパイアならではの苦労や知恵が、この映画の中でも面白可笑しく披露されるのである。

また、ヴァンパイアと一口に言っても、ヴィアゴ、ディーコン、ヴラド、ピーターの4人は年齢が大きく隔たっており、生まれ育った時代も、目にしてきた歴史も全く違い、それが其々の個性となって表れているところも面白い。固より183歳のディーコンなどはヴァンパイア界ではまだ子供同然の年齢であるらしく、仲間からは完全に「反抗期」扱いされてしまっている。
最年長のピーターに関しては、残念ながらあまり触れられていなかったが(流石にあの年齢までいくと、如何にヴァンパイアと雖も生きた化石状態になってしまうらしい。彼は殆ど棺桶から出てこなかった)、個人的には一番気になる存在だった。8000歳という事は、ええと……新石器時代とかのお生まれであろうか(笑)。彼は一体いつ、どうして、どうやってヴァンパイアになったのか? その辺りを是非聞いてみたかった気もするけれど、恐らくは本人ももう憶えちゃいないんだろう(笑)。

そして実は、この作品に登場する"アンデッド"な生き物は、ヴァンパイアだけではない。彼らが住む街には、他にもゾンビや狼人間などが生息しており、それぞれがコミュニティを作って暮らしているのだ。ヴァンパイア自体、他にも大勢存在している。よって作中では、そういう他種族間の交流や、或いは種族によっては反目し合う様子なども描かれていく事になる。
でも何が面白いって、この映画ではどのアンデッドも、なんだか当たり前みたいな顔をしてしれっと登場してくるところだ。まるで、"ヴァンパイア? うん、他にもいっぱいいるよ。ゾンビも狼人間もその辺にゴロゴロいるけど、それが何か?"とでも言わんばかりである。アンデッドがぞろぞろ出てくる映画といえば、普通はホラーと相場が決まっているわけだけれども、この映画はそうではない。勿論、ホラーめかしたスプラッターシーンは何度も出てくる。とはいえ結局のところ、本作にあってはそれも単なるブラックジョークのネタでしかなないのだ。
従来のホラー映画やファンタジー映画とは一線を画した、どこまでいってもシュールですっとぼけた、新しいヴァンパイア映画(しかもドキュメンタリー風)。それが、この『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』の特徴であり、魅力であり、ヴァンパイア映画の中では「異色」とされる所以でもあるだろう。


ところで。
全くの余談だが、意外にもこの映画には、私の今年一番のお気に入りドラマだった『FOREVER』との共通点が多く、その事にも驚かされた。
まず第一の共通点は、『FOREVER』の主人公・ヘンリーと同様、ヴァンパイアも不老不死であり、また歴史の生き証人でもあるということ。第二に、どちらの作品でも、本来途方もない長寿である筈の200歳前後の人物が、更に年長の存在によってひよっ子扱いを受けるということ。そして第三に、不老不死である以上、彼らはやがて身近な人間が自分を置いて死んでいくのを見送らなければならない立場にあるわけだが、その事への悲哀について、どちらの作品の中でもはっきりと触れられていること。いずれも単なる偶発的な共通点ではなく、双方の作品が共通の視点をもって、「不老不死」という題材を扱った結果によるものだろう。
実を言うと私は今まで、『FOREVER』の主人公の設定――不老不死で年齢は推定235歳――を非常に斬新なものと捉えていたのだけれど、然しよく考えてみたら、あのドラマよりも遥か昔から、不老不死モノ業界にはヴァンパイアという偉大な先人がいたのである。馬鹿みたいな話だが、そういやそうだよなぁと、何だか妙に感心してしまった。それに『FOREVER』に慣れ親しんでいる身としては、つい、そんなヴァンパイア達に一種の親近感を覚えてしまったのだった。
ただ、『FOREVER』のヘンリーとヴァンパイアとの大きな違いは、ヴァンパイアにはいざとなったら「日光を浴びる」という自殺の手段がある事だ。この点では、ヴァンパイアの方が幾らか救いがあると言えるかもしれない。が、その反面、不老不死ではあっても基本は「人間」であるヘンリーと違い、ヴァンパイアは人間の血液以外の食事が摂れない。これはやはりネックである。それに夜にしか活動出来ないとなると、まともな職にはありつけなさそうだし……(っていうかあのヴァンパイア達、働いてなかったよね? 笑)。
はてさて、同じ不老不死なら一体どちらの方がマシなのか。本作を鑑賞した後は、この究極の選択について、戯れに暫し頭を悩ませてみたりなどした。




by canned_cat | 2015-12-26 23:55 | その他地域映画 | Comments(2)

『サード・パーソン』


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2013年 UK/USA/ドイツ/ベルギー
4.7 /5点満点

パリ、ローマ、ニューヨークを舞台に、3組の男女の別々のエピソードを巧みに交差させて描き出すミステリー・ドラマ。(allcinemaより抜粋)
スランプ中のピュリッツァー賞作家・マイケルは、パリのホテルで缶詰になり、最新作を執筆していた。彼は不倫関係にある作家志望の女性・アンナとホテルで共に過ごすのだったが、実はアンナにもまた、秘密の恋人がいた。
アメリカ人の産業スパイ・スコットは、仕事で訪れたローマのバーで、エキゾチックな美しい女性・モニカと出会い、心を惹かれる。モニカには幼い一人娘がいたが、なんと密輸業者に誘拐され、身代金を要求されているという。そこで同じ年頃の娘を持つスコットは、彼女と彼女の娘を助けようと決心する。
ニューヨークに暮らす元女優のジュリアは、元夫である現代アーティストのリックと、一人息子を巡って係争中だった。ジュリアは以前誤って息子を死なせかけてしまった事で、保護者失格・精神不安定と見做され、息子はリックが引き取っていたのだった。我が子との面会も許されずにいるジュリアは、高級ホテルの客室係として働き、必死で裁判費用を稼ぐ。状況は極めて不利な中、彼女は弁護士に勧められ、裁判所の心証を良くする為に精神科医の鑑定を受ける事になったが……。

アンナに、オリヴィア・ワイルド。
モニカに、モラン・アティアス。
リックに、『トリスタンとイゾルデ』のジェームズ・フランコ。
ジュリアに、ミラ・クニス。


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全体的には、とても良い作品だったと思う。そして、とても映画らしい映画だったように思う。
基本的に、本作は成熟を感じさせるオトナの群像劇であり、ストーリーも描写もセンスが良く、洗練されている。どの男女のシチュエーションにも、それぞれ異なった趣きがあって好い。大人っぽい落ち着きのある作品ではあるが、ストーリーの盛り上がりと共に発露されていく、登場人物達のエモーショナルな言動には何度もドキッとさせられ、激しく心を揺さぶられた。
因みにこの作品では、全く別個のものに思える3つの物語が、やがて話が進むにつれて徐々に交錯してゆく――というより、初めは意図的に隠されていたそれぞれの物語の背景が、次第にその全貌を現してゆき、その結果、3つの物語にどういう関連性があったのかが徐々に明らかにされてゆく――わけだが、物語のいつ、何処で、誰に、何を、どこまで語らせ、そしてどこでどう盛り上げるか、といった事については非常によく計算されており、ストーリーテリング力も高い映画である。
映像も、たいそう美しい。特にパリやローマのシーンは、観客の旅情を掻き立ててくる。とはいえ小奇麗過ぎず、程好く生活感があったりするところがまた好いのだ。
私の「映画」の定義に従えば、この作品を撮った監督は正に映画のプロだな、と思う。
そして、キャストも全員が全員素晴らしかった。元々エイドリアン・ブロディが好きな私としては、いつも彼はその演技力に反して出演作にあまり恵まれていないような気がして不憫に思っていたのだけれど、そんな中、こういう良質な映画で彼の姿を見られたのは、格別に嬉しい事だった。


※以下、ネタバレです。ご注意を!※


さて、鑑賞し始めた当初は、てっきりこれは三組のカップル(及び彼らを取り巻く人々)の、その「男女」の関係をテーマにした群像劇なのかと思っていたのだが、実はこれがちょっと違ったんである。キーワードは「男女」ではなく、彼らの「子供」だったのだ。マイケルの子供、スコットの子供、モニカの子供、ジュリアとリックの子供、或いは、親を持つ子供であるところの、アンナ。この物語に登場する子供は、皆何かしらの悲劇に遭っている。それがこの三組のカップルの接点であり、そして「子供」に纏わる悲しみや苦痛を背負っている彼らが、互いに寄り添ったり、離れたり、傷つけ合ったり、慰め合ったりする様子が、情感を以って展開されていくのである……まぁ、少なくとも基本的には。

けれども、途中で「あれっ?」と思った。というのは、客室係として働きだしたジュリアの勤め先が、他でもないマイケルとアンナの滞在するホテルだったからだ。正確に言えば、マイケルやアンナの泊まっている部屋を、恰もジュリアが掃除したかの様な描写があるのである。待てよ、彼女はニューヨークに住んでいたのではなかったか。それがどうしてわざわざ、パリのホテルに勤めだしたのか。第一、彼女は経済的に困窮していたのに、パリまでどうやって来たのだろうか。よしんば、どうにかして来たのだとしても、パリなんぞに居たらそれこそ息子になんて会えないではないか。然も彼女とリックは、その後何度も、比較的手軽に行き来している。ではリックまでパリに居るというのか? そんなわけはない。
いや、それ以前に、である。抑々、マイケルとアンナが泊まっている部屋と、ジュリアが客室係として掃除する部屋とでは、室内の内装が全く違うのだ。それはもう何から何まで違う。にも拘わらず、マイケル&アンナとジュリアは、ホテルの滞在客とその客室係として、間接的にではあれ同じ部屋に居た事が匂わされるのだ。これはどういう事だろう?

その答えは、結末で明かされた。
実は三組のカップルの物語は、<現実世界>にいる作家・マイケル(否、厳密にはマイケルという名前かどうか判らないが、取り敢えずマイケルと同じくリーアム・ニーソンが演じる男性)が執筆中の、小説の中のお話だった。全ては、この作家が作り上げたフィクションだったのである。
三組とも小説の登場人物であり、ローマ組とニューヨーク組は完全なる架空の人物だが、パリ組に関してはどうやら、<現実世界>の作家氏が、自分達をモデルにして作ったキャラクターであるらしい。したがって恐らく作家氏本人も、作中のマイケルと同様、過去に息子を失う悲劇に遭っている。そして、妻の他に愛人がいた。結果的にはそれが原因の一つとなって、息子を失う事にもなった。
とはいえ、彼の書く小説はあくまでもフィクション。それも多分、不条理モノの類だ。だから、パリとニューヨークという遠く離れた場所に居る筈の登場人物達が、まるで同じ空間を共有したかのような不可思議な描写があったり、或いはラストシーンで、アンナとジュリアとモニカが同時にマイケルの前に姿を現す、という幻想的なシーンがあったりしたのだ。
本作のタイトルになっている「Third Person」は、文学の世界などではよく使われる「三人称全知」の事を言う。三人称作品に於ける視点の持ち主、言い換えれば「語り手」の事である。つまり、三組のカップルの群像劇には、実は初めから、彼らを動かすサード・パーソンが<現実世界>に存在していた、という意味なのだろう。

正直なところ、最後の最後に"全部作り話でした"って言われてしまうと、まるで夢オチを喰らったような気がして少々興醒めしてしまい、「そんなのあり!?」と、思わないでもなかった。
けれどもよくよく考えれば、先程のジュリアの件で分かるように、比較的早い段階からその伏線が張られていたのであり、何も結末だけが反則技的に"夢オチ"になっていたわけではない。
それに、<現実世界>の作家氏が三組のカップルの物語を書いたのにも、ちゃんと意味がある。これは私の想像だが、恐らくは本当に息子を失ってしまったのであろう作家氏にとって、ニューヨークの物語は、"子供が死なずに済んだ場合"のストーリーだ。そしてローマの物語は、”子供が死んでしまった場合"の、また別の結末を描いたストーリー。自分の子供を救えなかった代わりに、他の子供を救おうとする話である。そしてパリの物語は、そのどちらでもない、"現実"のストーリーなのだと思う(多少の脚色はあれ)。
彼の小説の中では、この二つの"たられば"の話と、現実の話とが平行して進んでゆき、然しやがていつしか、決して交わる事のない筈の三つの世界が、不思議にも混ざり合ってゆく。実際、これは小説の構造として非常に優れている。<現実世界>で出版された暁には、きっとこの本はヒットした事だろう。
そういうわけで、全てが作り話だったとするこのオチも、悪くはないのだ。これはこれでとても面白いとも言えるし、最初から全て計算ずくの、技巧に富んだオチとも言える。ただ私個人としては、ただの三組のカップルの群像劇のままで終わっても良かったんじゃないか、という気はしている。何せキャストが良いから、それだけでも十二分に素敵な作品になったに違いない。その際舞台を三つの場所に分けずに一つにまとめてしまえば、細部の整合性もとれるだろう。
勿論、どちらが良いとは一概には言えないけれど、この豪華キャストで織り成されるシンプルでエレガントな男女の群像劇というのも、ちょっと見てみたかったな、と思う。




by canned_cat | 2015-12-20 21:51 | その他地域映画 | Comments(0)


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2006年 UK/USA
4.7 /5点満点

気鋭の若き建築家・ウィルは、長年の恋人である映像作家のリヴと、彼女の連れ子である自閉症の少女・ビーと三人で、ロンドンで暮らしていた。だが近頃ビーの状態が極めて不安定になった事で、ウィルもリヴも疲弊してしまい、彼らの仲はぎくしゃくしだしていた。
丁度その頃、ウィルが共同経営者と二人で構えている建築事務所は、ロンドンのキングス・クロスにある治安の悪い地区へと移転する事に。然し引っ越し早々二度も空き巣被害に遭い、ウィルは早急に犯人を捕まえるべく、夜中の間自ら事務所の前で張り込みを決行する。その甲斐あって、彼は懲りずに事務所に侵入しようとしていた移民の少年を発見。けれども少年の跡をつけ、その身辺を探るうち、ウィルは少年の母親であるアミラに次第に心を惹かれていくようになる……。

ウィルに、『360』 『ホリデイ』『グランド・ブダペスト・ホテル』のジュード・ロウ。
リヴに、『フォレスト・ガンプ/一期一会』『ベオウルフ/呪われし勇者』 『声をかくす人』のロビン・ライト。
アミラに、『トスカーナの贋作』『パリ、ジュテーム』のジュリエット・ビノシュ。
ウィルの共同経営者・サンディに、ドラマ『SHERLOCK』『The Office』、『マーティン・フリーマンのスクール・オブ・ミュージカル』 『恋愛上手になるために』『ホビット』シリーズのマーティン・フリーマン。
ブルーノ刑事に、『キング・アーサー』 『ベオウルフ/呪われし勇者』のレイ・ウィンストン。
オアーナに、『ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所』のヴェラ・ファーミガ。


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とても綺麗な作品だった。
私の書いた粗筋ではただの不倫映画にしか聞こえないかもしれないが、決してそうではない。もっとシリアスで、複雑な背景が絡み合っていて、そして人間という生き物の不器用さを真正面から映し出した、良作ヒューマンドラマだ。

物語の主要人物、ウィル・リヴ・アミラの三人は、其々愛する家族と暮らしながらも、心のどこかに孤独を抱え、その出口の見えない闇の中で三者三様にもがいて生きている。
ウィルはリヴの事もビーの事も愛しているが、ビーの実の父親ではない分、彼女達との暮らしの中で一人だけ疎外感を抱えてしまっている。彼なりに精一杯やってはいるけれど、どうしてもその疎外感から来る苛立ちを隠す事が出来ず、また不安定な状態にあるビーへの接し方に対しても、戸惑いを募らせてしまう。
リヴはリヴで、大事な娘の為に仕事もやめ、24時間献身的に彼女の世話をしている。だが体力的にも精神的にも限界にきており、そしてウィルの苛立ちを日々肌身に感じ、苦しんでいる。
アミラは、シングルマザーの移民の女性だ。その昔、祖国ボスニアの紛争から息子と二人で命からがら英国へと逃れ、今は仕立て仕事で細々と生計を立てながら、倹しく暮らしている。息子のミロを何よりも愛し、息子にだけは良い人生を歩んでほしいと、それだけを願っている。けれどもミロの方は、やはり移民の少年であるが故の寂しさや憤りがあるのだろう。根はとても良い子なのだが、彼はろくに学校にも行かずに同じ移民仲間の悪い連中とつるんでは泥棒を働き、小遣い稼ぎに明け暮れている。そしてそんなミロの行いをそれとなく知りつつも、息子の将来を心配するあまり、彼を庇ってばかりいるアミラ。
この物語では、誰もが皆、日常を懸命に生きている。悪い人間は一人もいない(少なくとも、主要人物の中には)。それでも、それぞれの思いがそれぞれに空回りし、すれ違い、彼らの抱える寂しさだけが呼子のように響き合ってゆく。愛する人はちゃんと目の前にいるというのに、誰もが愛に飢えてしまっているかのようだ。


※以下、結末や核心部分には触れていませんが、多少ネタバレを含んでいます。

そんな中、ミロが偶々ウィルの事務所に泥棒に入った事で、全てが始まる。
結果的にウィルはアミラと出会い、行き場を失くしていた愛の向かう先を、彼女に求めていく。然しアミラの方は、哀しい事に、犯罪に手を染めてしまった息子の将来を守る為ウィルとの関係を利用しようとする。「不貞行為」というウィルの弱みを握る事で、ミロの犯した罪を見逃してもらおうというのだ。だがそうとは知らずに、アミラとの逢瀬に溺れていくウィル。当然、ウィル・リヴ・アミラ・或いはミロの、それまでの日常も崩れてゆく。
ただの不倫話ではないだけに、余計に切ないのだ。特にウィルにとっては、孤独な日々から逃れようともがき続けて、やっと望んでいたものを見つけたと思ったら、それは幻で、今まで以上に虚しい結果を生んでしまった事になる。彼のした事は、もし自分の恋人だったら許せないような気もするけれど、とはいえ作中ではそれまでの彼の葛藤ぶりが丹念に描かれており、そこから先も彼の心情が丁寧に吐露されていくので、正直あまり憎む気にはなれなかった。ただただ、人間って不器用だなぁとか、愛って切ないもんだなぁとか、人生って淋しいもんだなぁなどと、考え込んでしまうばかりだった。
また、ウィルとリヴの関係も、泥沼の愛憎劇には発展しない。ウィルの不貞(及びアミラの思惑)が発覚した後、彼らは二人して静かに傷つき、静かに苦しむのである。時には感情を思うさまぶつけ合うところも見せるが、少なくとも絵に描いた様な愛憎劇なんかより、此方の方がよっぽどリアリティがある。それに、よっぽど哀しい。

そう、この物語は、切なさや哀しさに溢れている。にも拘わらず、それでもこの映画を「綺麗」だと感じたのは何故なのか?
その理由の一つには、勿論、本作の映像及び音楽の美しさといった技術的な要因があるだろう。が、それだけではない。思えらく、やはり人間の感情というのは、美しいものなのだ。誰もが皆十人十色の感情を持ち、それが交差し、絡み合い、影響を与え合う中で人々が真摯に生きていく姿は、きっと日頃私達が思う以上に、ちゃんと美しいものなのだ。それを、この作品では見事なまでに繊細にスクリーンに描き出している。素晴らしい演技を見せた役者陣も、喝采ものだった。

なお、本作の原題は「Breaking and Entering」。不法侵入、の意である。邦題もなかなか素敵だとは思うが、原題では一人の泥棒少年の不法侵入によって、登場人物の人間関係が生々しく動き出し、彼らの人生が一変していく本作のストーリーが、衒いなくストレートに表現されている。シンプルだが、秀逸なタイトルだ。




by canned_cat | 2015-12-10 21:41 | UK/USA映画 | Comments(2)


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1998年 UK
4.5 /5点満点

アイルランドの離島にある、人口たった52人のとある小さな村。過疎化が進む寂れたこの村で、住人達のささやかな楽しみとなるのは宝くじだった。妻と二人暮らしの老人・ジャッキーもまた、毎度どうせ当たりもしない宝くじを買っては束の間の夢を見、そしてまた外れたと言っては妻と笑い話にする、そんな平凡で平和な日々を送っていた。
ところが、今度の宝くじの当選発表から数日が経ったある日、ジャッキーはなんとこの村から一等の当選者が出ていた事を新聞記事で知る。そこで彼は長年の友人であるマイケルと共に、村人のうち一体誰が当選者なのかを秘かに探り始める。見つけ次第その人物に上手く取り入って、二人して分け前に与かろうというのだ。
なかなかそれらしき人物が見当たらずに苦心しながらも、やがてとうとう、彼らは当選者を突き止める。その幸運の持ち主の名は、ネッド・ディヴァイン。ジャッキーやマイケルとは古くからの知り合いの、一人暮らしの老人だった。早速ネッドの家を訪ねた二人だったが、ところがどっこい、驚いた事に、当のネッドはくじに当たったショックで心臓発作を起こし、既にポックリ逝ってしまっていた。だが幸か不幸か、ネッドには身寄りがない。そこでジャッキーとマイケルは、ネッドに成り済まして賞金をネコババする事を思いつくが……。

ジャッキーに、『ブレイブハート』 のイアン・バネン。
マイケルに、デヴィッド・ケリー。
フィンに、『ミリオンズ』 『ホビット』シリーズ のジェームズ・ネスビット。


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素朴ながらも、庶民的な味わいに溢れた良作コメディだった。
出てくるのは殆どが素朴なおじいさんやおばあさんばかりだが、昔からお祖父ちゃんお祖母ちゃんっ子だった私には、寧ろそれは親しみの持てる光景だ。そしてこの何処にでも居そうな感じのおじいさん達が、幾つになってもつい欲をかいてしまい、宝くじの賞金欲しさに死人をそっちのけですったもんだと奮闘する。然しやはりどうしても悪人にはなりきれず、途中からは村中の人々を巻き込んでの大騒動となり、それが最後には和やかな人間賛歌へと発展する。全体的にコンパクトによく纏まったコメディで、間違いなく一見の価値ある作品だ。

ここで云う宝くじとは、さしずめ日本のサマージャンボや年末ジャンボのような、全国区のそれである。その一等ともなれば、当然、金額も大きい。
そこでまず当選者探しを始めたジャッキー達は、羽振りの良さそうな村人がいれば、すわこいつかとばかり、白々しく親切そうな顔をして彼らにすり寄っていく。けれども、例えば新車を乗り回していた男を見つけてせっせと酒を奢ってやったら、「実はこれは兄貴からの借り物で……」と言われ、はたまたやけに上機嫌なご婦人を見つけてパイをご馳走してやれば、「実は孫が生まれまして……」と打ち明けられる、といった具合に、全て空振りに終わってしまう。この時点で、かなり可笑しい。そしてまた、ジャッキー達の下心見え見えの奔走ぶりを見て、「おやまあ浅ましいこと」と苦笑しながらも、同じ一庶民としてなんとなく気持ちは解る気がしてしまうのも事実だ。
然し彼らがネッドの死体を発見してからは、物語は若干剣呑な空気を帯び始める。何せ死後数日が経過した死体を放置したまま、その人物に成り済ましてお金を掠め取ろうというのだ。これは明らかにまずい。
が、上手くしたもので、ネッドが当てた賞金は当初の予想よりも遥かに莫大な金額だった事が判明し、宝くじのシステム上、ネコババを働こうにもジャッキー達だけの手には負えなくなるのである。そこでジャッキーとマイケルは村人全員に全てを正直に打ち明け、彼らに一連の詐欺に協力してもらう代わりに、みんなで公平にお金を分け合おうじゃないか、と提案する。何しろどの道引き取り手のないお金ではあるわけだから、そんなら村中で幸せを分かち合うのも良いだろうと、殆どの村人がこの提案に賛成する。
ところが案の定、村人の中にはもっと業突く張りなのがいたりして、自分だけ得をしたいばっかりにその人物はジャッキー達の邪魔をしだす……。と、ここからはまぁ観てのお楽しみ。

この映画の何が良かったって、全編に亘って描き出される、登場人物達の小市民っぷりだ。完璧な人間は一人もおらず、皆それなりに欲張りで、それなりにみっともなくて、だけどやっぱりそれなりに善人で、人情や村人同士の絆というものもそれなりに大切にしている、この憎めない小市民たち。そしてひょうきんなジャッキーと天然ボケのマイケル、この名コンビが織り成すとぼけた遣り取りが、また格別なんである。正直彼らのしている事は犯罪でしかない筈なのだが、この二人の愛嬌満点のキャラクターと、アイルランドの片田舎という長閑な土地柄のせいで、なんだか全てがほのぼのして見えてしまう。
更に本作の魅力を一層引き立たせているのが、そこここで映し出されるアイルランドの果てしない大自然、及び物語の背景に流れる郷愁漂うケルト音楽。特にあの雄大な景色を画面いっぱいに見せつけられてしまっては、まぁ村のみんなが幸せになれたんなら細かい事は何でもいいかというか、人生、法律なんかよりも大事な事があるよな、という鷹揚な気持ちになってくる。実際、本作は舞台作品としても通用しそうなくらいコンパクトな内容であるが、とはいえこの何もかもを包み込むような大自然の風景なくしては、やはりこの物語を語り尽くす事など到底出来はしないだろう。




by canned_cat | 2015-11-13 22:09 | UK映画 | Comments(0)

『Woman in Gold』(原題)


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2015年 UK/USA
4.5 /5点満点

<グスタフ・クリムトが描いた世界的名画「黄金のアデーレ」をめぐって実際に起こった裁判と「黄金のアデーレ」に秘められた数奇な物語を、アカデミー賞女優ヘレン・ミレン主演で描いた>作品。(映画.comより抜粋)
日本では、『黄金のアデーレ 名画の帰還』として来る11月27日から公開予定。

オーストリア系アメリカ人の若き弁護士、ランドール(ランディ)・ショーンバーグは、ある日知人の女性から突飛な弁護依頼を受ける。彼女の名は、マリア・アルトマン。ショーンバーグ家と同様、第二次世界大戦中にアメリカへ渡って来たオーストリアの名家出身の老婦人で、現在でも一家と家族ぐるみの付き合いをしている人物だ。そんな彼女の依頼とは、大戦中にナチスに奪われた家宝の絵画を取り戻して欲しいというものであった。
だがその絵画こそ、1907年にかの偉大な画家・クリムトがマリアの叔母アデーレをモデルにして描き、今では世界的名画として知られている「黄金のアデーレ」。マリアによると、この絵は嘗てオーストリアを占領したナチスによって、ユダヤ人一家であったアルトマン家から強奪されたが、その後はオーストリアの所有となってウィーンのベルヴェデーレ美術館に飾られる事となり、今日に至っているらしい。そしてつい最近、オーストリア政府が過去にナチス・ドイツ経由で手に入れた絵画を元の所有者に返還したというニュースを新聞で読んだマリアは、それならばと希望を持ったのだという。彼女はこの名画を取り戻す事で、子供の頃に慕っていた最愛の叔母との大切な思い出と、戦時中に無惨にも踏みにじられたユダヤ人としての誇りを取り戻したいと願っていた。
然し一国の政府を相手に、これほどの世界的名画を返却させるなど所詮望み薄な話……と、当初は消極的な態度を見せるランディ。それでも「黄金のアデーレ」の莫大な価値につられ、一先ずマリアと共にオーストリアへ交渉に赴いた彼は、そこで初めてマリアとその家族が過去に味わわされた悲哀を肌身で感じる事になる。と同時に、同じくこの国を祖国に持つユダヤ人として、初めて自分のルーツに触れたランディは、次第に強い正義感に突き動かされるようになっていく。結果、所属先の大手弁護士事務所には反対されるも彼は職場を辞めてまで訴訟を起こし、マリアと二人三脚で、一世一代の大仕事に取り組もうと決めるのだった。


マリア・アルトマンに、『クィーン』『終着駅 トルストイ最後の旅』 『ゴスフォード・パーク』のヘレン・ミレン。
ランドール・ショーンバーグに、ライアン・レイノルズ。
オーストリアの報道記者フーバータスに、『グッバイ、レーニン!』『青い棘』『ラヴェンダーの咲く庭で』『パリ、恋人たちの2日間』『サルバドールの朝』『ベルリン、僕らの革命』『コッホ先生と僕らの革命』 『ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所』 『みんなで一緒に暮らしたら』 『フィフス・エステート 世界から狙われた男』のダニエル・ブリュール。
ランディの妻パムに、『サンキュー・スモーキング』のケイティ・ホームズ。
ランディの上司シャーマンに、『ラヴェンダーの咲く庭で』『マイケル・コリンズ』 『ゴスフォード・パーク』のチャールズ・ダンス。
ベルヴェデーレ美術館の代表ドライマン博士に、『コッホ先生と僕らの革命』 『ルートヴィヒ』 『ミケランジェロ・プロジェクト』のユストゥス・フォン・ドホナーニ。
連邦最高裁長官に、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、『バロン』『摩天楼を夢みて』のジョナサン・プライス。
クリムトに、『ソウル・キッチン』『フィフス・エステート 世界から狙われた男』 『360』のモーリッツ・ブライプトロイ。


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とても興味深い作品だった。これは実話を基に制作された映画であり、マリア・アルトマンもランドール・ショーンバーグも、実在の人物である。マリア・アルトマン氏は残念ながら2011年に亡くなられたとの事だが、彼女とこの「黄金のアデーレ」(「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」)を巡る物語、及び2006年に決着を見た裁判の行方は、既に何度もドキュメンタリー化されているのだそうだ。
なお本作では、アメリカとオーストリアで行われた法廷闘争の様子も勿論描かれているが、といって法廷劇というわけではない。所々で若き日のマリアの回想シーンを交えつつ、基本的には彼女とランディのドラマを中心にして、物語は進んでいく。


実は主人公のランディは、オーストリア出身の二人の著名な音楽家、アルノルト・シェーンベルクとエーリッヒ・ツァイスルのお孫さんという、結構な血統書付きの人物である。両人とも戦時中にナチスから逃れてアメリカに亡命したユダヤ人で、ランディの苗字ショーンバーグは、シェーンベルクの英語読みというわけだ。
だがそうしたルーツを持っているにも拘わらず、マリアの訴訟に関わるようになるまでのランディは、自分の先祖にも、先祖の祖国オーストリアにも、オーストリアとナチスとの関係やそこで起こったユダヤ人の悲劇にも、然したる関心を持ってはいなかった。とはいえそれも、無理からぬ話だったのかもしれない。ご先祖が何であれ、彼自身はアメリカ生まれアメリカ育ちの現代っ子なのだし、それ以前に、奥さんと乳飲み子を抱えながら一度独立に失敗してしまっていた彼としては、過去の歴史の話なんかよりも目の前の生活に必死だったのである。当初はやっと大手事務所への再就職が決まったばかりでもあり、マリアに弁護を依頼された時も、"そんな厄介な話を持ってこられてもなぁ……"と言わんばかりの顔だ。
けれども戦争というものは、話に聞くのと、実際にその話に関わるのとでは、その現実味が大きく違ってくる。「黄金のアデーレ」の一件に係わり合った事で、ランディは戦争を追体験する事になった。更には生まれて初めて自らのルーツをはっきりと意識し、やがてはいちオーストリア人として、或いはいちユダヤ人として――即ち傍観者ではなく当事者として、この案件に尽力するようになっていくランディ。畢竟この「黄金のアデーレ」を巡る訴訟は、依頼人のマリアだけではなく彼自身の人生にとっても、非常に大きな意義を持つものだったのである。


さて、元々「黄金のアデーレ」を奪ったのはナチスなのだから、目下この絵を所有しているオーストリアには何の責任も、返却する義務もないのではないかと考えたくなるところだが、事はそう単純ではない。
何故かというと、まずオーストリアは、本来の所有者であるアルトマン家を無視し、ナチス経由で不正にこの絵画を譲り受けていたという点が一つ。
それからもう一つは、オーストリアには第二次大戦中にナチス・ドイツに占領され合併されたという歴史があるが、(マリアの言によれば)当時墺政府はナチス・ドイツを歓迎する立場を取っていた……つまり彼らに与していたという点だ。そういえばいつだったか、ナチス・ドイツの犠牲国と見做されていたオーストリアが、実際には戦争責任があった事を認めて謝罪したという話を私も聞いた憶えがある。
ナチス・ドイツが台頭するまで、マリアはオーストリアで家族と幸せに暮らし、美しい祖国を心から愛していた。だがオーストリアがナチス・ドイツに組み込まれてからはそれが一転、ユダヤ人の彼女の一家は迫害され、居場所を追われるようになる。彼女とその夫は命からがらアメリカへと逃げ延びたが、両親や他の家族とは悲しい別れを迎える事になってしまった。そうした経緯のせいで、マリアは自分から家族と祖国の存在を奪った仇として、その祖国であるオーストリアを長年恨み続けてきたのである。結果的にはランディと共にオーストリアを訪れてはいるが、当初は二度とオーストリアには戻るまいと、固く心に決めていたほどだ。
作中で、「オーストリアに戻るくらいなら死んだ方がましよ」と言うマリアに、ランディが「だって半世紀前の話でしょ?(まだ根に持っているのか)」と訊ねるシーンがある。然しそれに対する彼女の返答は、「ええそう、ついこの間よ」というものだった。
或いはまた、二人でウィーンを訪れた際のホテルマンのと会話もそうだ。彼女がオーストリア出身だと知ったホテルマンは、ではドイツ語も話せるんですね、とドイツ語で話しかけた。けれどもマリアは、「Yes. But I choose to speak English.」と即答。無論、「choose」という単語の選び方に、彼女の強い意志と意図とがはっきりと込められている。そして最後にホテルマンが「よいご滞在となりますように」と言うと、「せいぜい努力するわ」とにべもなく返すマリア。象は決して忘れない、という英語の諺があるが、あれはまさにこの事であろう。
彼女がここまでオーストリアに対して根深い遺恨を抱えていたのは、それもこれも、彼女自身が他ならぬオーストリア人だったからに違いない。生まれ育った祖国を愛していたからこそ、その裏切りがどうしても許せなかったのだ。けれどもその一方で、心底では今でも祖国を大切に思っているからこそ、彼女はこの国が過ちを正してくれる事を願ったのではないかと思う。故にこそマリアは、直截の加害者であるドイツに対してではなくオーストリアに対して、過去の罪を償うよう求めたわけだ。


然し、ここで大きな壁がマリアとランディに立ちはだかる。それは名画「黄金のアデーレ」が、オーストリア人にとってあまりに価値がありすぎた事だ。
抑々、オーストリア政府が戦後補償として美術品の返却を始めたのは、対外イメージの向上を図っての事だった。ただ恐らくマリアが新聞記事で読んだそれというのは、返却しても然程支障のないような作品か、少なくとも「黄金のアデーレ」よりは遥かに価値の低い作品の話だったのだろう。
だが事が「黄金のアデーレ」となると、そうはいかない。二人に協力してくれたオーストリア人記者、フーバータスは言う。「『黄金のアデーレ』は、オーストリアに於けるモナ・リザだ。これを返そうなんて考えるオーストリア人はいない。」彼はこうも言った。「オーストリアは、パンドラの匣を開けてしまったのだ」と。
かくしてマリアの要求は墺政府の返還委員会からも、ベルヴェデーレ美術館からも突っぱねられ、争いは法廷へと持ち込まれる。当然報道では大きく取り上げられたが、裁判は難航した上、マリア個人の訴訟が国家間の外交問題に発展する事を危惧した米国政府は、この件に対して不支持を表明。土台、裁判でその責任の所在を明らかにするには、この話はあまりにも発生から時間が経ちすぎ、またあまりにも複雑すぎたのである。
当のマリアも、苦境に立たされた事で失望を味わい、一旦は「黄金のアデーレ」を諦めようとした。が、本人が諦めてもなお諦めようとしなかったのが、ランディだ。先に述べたように、この問題に最後まで立ち向かう事は、最早彼の使命となっていたからである。最終的には、ランディのその正義感と執念、そしてここに来て初めて芽生えたオーストリア系ユダヤ人としての彼の信念が、物語を希望へと導く事になる。


本作ではこうしたストーリーが、優れた役者陣と良質な映像を以て語られていく。主演のヘレン・ミレンは、今回も流石の名演であった。特に本作では、毅然とした老貴婦人でありながらもどこかお節介で口うるさい、一介のおばちゃんじみた卑近且つチャーミングな姿も披露してくれている。一方のライアン・レイノルズも、ランディ役にはぴったり。初めはなんとも頼りないお坊ちゃん弁護士でしかなかった彼が、次第に明確な信念を持った弁護士へと逞しく成長してゆく様は、観ていてたいへん好もしいものだ。それでなくてもこの映画の題材はとても興味深いものなのだし、見所のある作品である事は間違いない。
ただ哀しい哉、脚本が今一つ未熟だったのが惜しまれる。いや、この作品で「言わんとしていること」自体は良いのだ。でも、結局はそれがちゃんと「言えて」いなかったように思う。殊に後半の展開は駆け足すぎて、クライマックスではおざなりな感動しか味わえなかったのが残念だ(だいたい何故ランディは、終盤で米国最高裁からオーストリアでの調停へといきなり方向転換したのだろう。肝心のそこがよくわからない)。またマリアとランディのバディムービーという側面から言っても、結果的には中途半端なものに終わってしまっていた。
ざっと挙げるだけでも、本作の背景には戦争・ホロコースト・戦後補償・イデオロギー・民族的アイデンティティといった、それはそれは複雑な問題の数々が絡み合っており、恐らくはその深大なテーマに脚本が追い付けなかった、そういう事なのだろう。確かに、それら全ての問題の核心に迫るような脚本を書く事は、途轍もなく難しい。だが、それでももっと挑戦するべきだったと思う。何故ならこれは、間違いなくその努力に値する物語だからだ。人間は過ちを犯す生き物だが、幸いにも、私達にはそれを正す能力もまた備わっているということ。そして過去の過ちを勇気を持って正す事こそ、何よりも誇り高き行いなのであるということを、この物語はつくづく考えさせてくれるのである。
最後にマリアがランディに述懐した台詞は、まことに考え深い。もしかすると彼女が一連の行動を起こしたのは、正義や名誉の為である以上に、自分自身の罪滅ぼしの為だったのかもしれない。祖国に贖罪をさせる事で、嘗て故郷に置き去りにしてしまった家族に対して、彼女自身が贖罪をしたかったのかもしれない……そんな事を思った。


「善人は過ちを謝罪するが、偉人は過ちを正す」――ゲーテ




by canned_cat | 2015-09-08 22:40 | UK/USA映画 | Comments(0)

『パディントン』


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2014年 UK/フランス
5 /5点満点

半世紀以上に亘って世界中で愛され続けている、イギリスの児童文学の傑作「くまのパディントン」シリーズを、CGIやアニマトロニクスを用いて実写化した作品。

嘗て、ペルーの奥地にある人跡未踏のジャングルに、英国から一人の探検家がやって来た。彼は国の学会から指示を受け、珍種の動物を捕獲しにやって来たのだったが、そこで一組の珍しい熊の夫婦と出会う。賢くて優しい彼らと探検家はすぐに友達になり、探検家はこの熊夫婦をパストゥーゾとルーシーと名付けると、彼らに英語と人間の文化を教え、捕獲はせずにやがて帰国した。帰り際、”いつでもロンドンに遊びに来い、歓迎するぞ”と夫妻に言い残して。
それから数十年の月日が流れ、熊夫妻は甥っ子の小熊と共に、相変わらずジャングルで暮らしていた。互いに英語で会話をし、熊としては非常に文明的で豊かな生活を送っていた彼らだったが、ある日大地震が起きてジャングルは崩壊、パストゥーゾも死んでしまう。残されたルーシーは老熊ホームに入所する事を決め、まだ若い甥っ子熊は、あの探検家を頼ってロンドンへと向かう事になった。
こうして、トランクケース一つと亡きおじの形見の帽子を被り、人間の船に潜り込んでどうにかロンドンのパディントン駅に降り立った小熊。然し肝心の探検家の居場所はわからず、人間に話しかけても誰も相手にしてくれず、なかなか行くあてが見つからない。そんな時、偶然彼の前を通り掛かったのがブラウン一家だった。奥さんのミセス・ブラウンは小熊を憐れに思い、暫くの間彼を引き取るよう家族を説得。気難し屋のご主人ミスター・ブラウンは難色を示したものの、一先ず”探検家が見つかるまで”という約束で、小熊はブラウン家の厄介になる事に。そしてまだ名前を持たなかった彼は、駅の名前を取って「パディントン」と名付けられたのだった。
かくして、ブラウン家とパディントンの奇妙な同居生活が始まる。不慣れな人間との暮らしの中で様々な騒動を巻き起こしながらも、次第に一家との絆を深めていくパディントン。だがその頃、珍種であるところの彼の存在を知った博物館の関係者が、パディントンを剥製にしてやろうと、秘かに付け狙っていた……。

パディントン(声)に、ベン・ウィショー。
ミスター・ブラウンに、ドラマ『ダウントン・アビー 〜貴族とメイドと相続人〜』、『アイリス』『ミケランジェロ・プロジェクト』のヒュー・ボネヴィル。
グルーバーに、『アイリス』『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 』『アートスクール・コンフィデンシャル』のジム・ブロードベント。
ミリセントに、『ビリー・バスゲイト 』『白いカラス』『ペーパーボーイ 真夏の引力』 『ある貴婦人の肖像』のニコール・キッドマン。
カリーに、『フィフス・エステート 世界から狙われた男』のピーター・カパルディ。



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めっっっっっちゃくちゃ可愛かったです……。
もう、あの、めっっっっっちゃくちゃ可愛かったですこの映画……!!!(号泣)

しかも可愛いだけじゃなくて、めっっっっっちゃくちゃ面白かったんです!!!
元が児童文学だからと侮ることなかれ、実写だからと見縊ることなかれ、そして原作を知らないからと尻込みすることなかれ!! これは間違いなく全ての老若男女に心置きなくお楽しみ頂ける、素晴らしい傑作であります! To die forであります!
何が素晴らしいって、まずどんなひねくれ者でも心温まらざるを得ない素敵なストーリーと、実によく纏まった構成、抱腹絶倒もののユーモア、そして一人残らず完璧な役者陣に、オリジナルストーリーをきっちりと下敷きにする事で原作と原作者に最大の敬意を払いつつ、そこに極上の味付けを加えてみせた制作陣の、この作品に対するそれはそれは深い愛情。
また、驚いた事に本作は実写と雖も映像面での不自然さが一切なく、劇中で惜しみなく披露されるパディントンの愛らしさときたら、本来のキャラクタのイメージを凌駕してしまうほど。いや、このパディントンは一般に流布しているデザインよりもかなりリアルなヴィジュアルになっているわけですが、でもこれがもう本当に可愛くて。あんまり可愛くて、見れば見るほどほとほと可愛くて、七転八倒したくなるくらいなのです。予告編だけ観て「え~、なんかこのパディントン可愛くな~い」とか安易に文句言ってる人、そんな奴はもう、もう、脱脂粉乳でも飲んでろッ!
日本では年明けに公開予定ですが、パディントンのママレードサンドウィッチに誓って、小正月を過ぎた頃には爆発的なパディントンブームが日本列島を駆け巡っている事でありましょう!!

ここで基本情報を少し説明しておくと、そもそもパディントンというのは、世界一、礼儀正しく紳士的なことで知られている熊でありまして。何しろ彼は、ずっと昔に英国人がおじ夫妻に教えた教育を引き継いでいるわけですから、話し方も振る舞いも、非常に古風でお上品(但し食事風景を除く。だって熊だもの)。ロンドンでは、通りすがる人にいちいち帽子を取って、「こんにちは」「ご機嫌いかが」「ひどい雨ですね」と丁寧にご挨拶。(なおこれも探検家の教育によるもので、とにかく雨の多いロンドンでは、大抵挨拶と雨の話だけしていれば済むと教え込まれたため、雨が降っていなくても彼はそのように言う。)
面白い事に人々はパディントンを見ても何故かそう驚かず、せいぜい「あっ、熊だ」か「げっ、熊だ」ぐらいのもの。然しみんな熊とはあまり関わり合いたくないようで、よそよそしく扱いがちだったりするのだけれど、当のパディントンはそれを一向に意に介さない。彼は極めて温厚でお利巧、且つマイペースな熊なのです。
で、そんなパディントンの愛すべきキャラクタに、本作で彼の声を演じた今をときめく若手英国人俳優、ベン・ウィショー氏の声がまたおそろしいほどぴたりとマッチしていましてね! 元々、パディントン×ウィショーのコラボのニュースを聞いた時から、"へ~、良さそう!"と期待してはいましたけれども、いやいや良さそうどころか、最早これは奇跡のコラボレーション、いえ寧ろ運命のコラボレーション、いっそ必然の(ry
ともかくウィショー氏の声のお蔭で、この映画ではパディントンの愛嬌や、思慮深さや、ジェントルマンフッドが一層引き立っていたのでした。

さて、そんなお育ちの良いパディントンではありますが。そうは言っても実際に人間界で暮らすのは今回が初めてなわけで、その結果彼は何かとトンチンカンな行動に出たり、珍騒動を引き起こしたりしてゆきます。その光景が可笑しいのなんの。

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初めて見るエスカレーターにびびるパディントン。しかも乗り方がわからない。そこで色々考えた結果……


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こうなったり(笑)。

そしてブラウン家では初日から洪水を起こしーの、かと思えば小火も起こしーの、はたまたセロテープでぐるぐる巻きになりーの……。ご主人のミスター・ブラウンはとても保守的で心配性で口うるさい人なので、トラブルを起こしてばっかりのパディントンにうんざりし、"やっぱり熊と暮らすなんて無理だ! 子供達に何かあったらどうする、今すぐ当局に引き渡さねば!"と言い出します。
ところが、その子供達というのが、丁度難しい年頃に差し掛かってきていたもんで、このところブラウン家では親子間の関係がぎすぎすしてしまっていたんですね(なんせパパが口うるさいし)。けれども既にパディントンに懐いていた子供達から、"お願いパパ、パディントンを警察に渡さないで!"と泣きつかれ、ミスター・ブラウンあっさり降参。"仕方ないなぁ"なんて言いながら、もう顔中にっこにこなのであります。
そう、この映画でパディントンの次に愛くるしい存在となっているのが、ミスター・ブラウンであるところのヒュー・ボネヴィル。先達て『ミケランジェロ・プロジェクト』を観た時にも思いましたが、この方、コメディの才能にも非常に長けてらっしゃるんですねぇ。真面目な顔して笑かしてくれる時の、あの絶妙なノリ。いや最高です。
ともあれ、そんなこんなでパディントンは徐々にブラウン家の一員となってゆき、彼らの家族仲を取り持つ大事な存在にもなり、途中博物館の刺客に追われたりするけれども、最後には一家と一丸となってピンチを乗り越える。当初は探検家を探しにロンドンにやって来たはずが、彼は新しい家と家族を、自分の力で手に入れる。この映画はそういう、コミカルでありながらも頗るハートウォーミングな物語なのであります。

なんでも2017年には続編の『Paddington 2』が公開となる見込みだとかで、まあ現時点ではまだどうなるかわからない段階だと思いますが、是非是非お願いしたいですね、続編! 親愛なるパディントンとブラウン家の皆さん、楽しみにしてますよー!!




by canned_cat | 2015-08-18 15:52 | UK映画 | Comments(2)

『経度への挑戦』


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2000年 UK
4.5 /5点満点

英国の名門、グラナダプロダクション制作による良作TV映画。原作は英米両国でベストセラーになった、デーヴァ・ソベル著の同名ノンフィクション。
航海に於ける経度の測定技術がまだ確立されていなかった18世紀に、世界で初めて海の上でも精確に機能する精度の高い時計(クロノメーター)を開発し、船上での正確な経度の特定を可能にして航海術に大きな貢献を果たした英国人技師、ジョン・ハリソンと、20世紀初頭にハリソンのクロノメーターを研究・修復し、彼の偉業を改めて世に伝えた元英国海軍少佐、ルパート・グールド。およそ200年の時を隔てながらも、共にこの「海上時計」に並々ならぬ情熱を注ぎこんだ、二人の男の半生を交互に描き出す伝記ロマン。

ウィリアム・ハリソンに、『ウェールズの山』『マイケル・コリンズ』『がんばれ、リアム』『プルートで朝食を』のイアン・ハート。
モートン卿に、『トロイ』『ファンタスティック Mr.FOX』 『天才マックスの世界』 『アイアンクラッド』『ブレイブハート』のブライアン・コックス。
ジョン・キャンベルに、ドラマ『SHERLOCK』のアンドリュー・スコット。
チャールズ・ペラムに、『わが命つきるとも』のナイジェル・ダヴェンポート。


大航海時代を経て、益々外洋航海が盛んになった18世紀初頭の英国。だが未だ経度の測定技術は未発達であり、そのため船乗りたちは海上で現在地を正確に割り出す事が出来ず、海難事故が頻発し深刻な問題となっていた。そして1707年にはシリー諸島沖で4隻の英軍艦が座礁、2千名近い犠牲者を出す大事故が起き、ついに英国議会は「経度法」を定めるに至る。即ち、海上で経度を正確に測定する為の実用的且つ有用な方法を考案した者に、政府が莫大な懸賞金を約束するという法律だ。
この懸賞金を巡って、ありとあらゆる人物がありとあらゆる方法で経度へのアプローチを開始する中、北リンカンシャーの片田舎に暮らす腕の良い大工が、また一人名乗りを上げた。彼の名はジョン・ハリソン。ハリソンは本業の傍ら独学で工学や物理学を学んでおり、時計制作を趣味としていたのだったが、既に1か月に1秒しか遅れないという驚きの精度を持った時計を開発し評判となっていたのである。そして彼は、正確に時間を刻む時計こそが、経度の測定には最も実用的且つ有用であると確信していた。


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ハリソンはロンドンに上京すると、英国随一の高名な時計職人・グラハムから資金援助を得て、早速時計の制作を開始。長い航海の間も時計が正確に作動し続けるためには、時計本来の精度の高さに加え、如何なる天候(気温)にも、如何なる大きさの揺れにも耐える設計が必要となる。彼は何度も試行錯誤を繰り返しては、実際に航海に出掛けて実験を行い、また幾度となく挫折も味わいながら、息子共々その後の長い人生をかけてクロノメーターの開発に心血を注いでゆく。


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一方、時代は変わって20世紀初頭の英国。神経を病んで海軍を退役していたルパート・グールドは、200年前にハリソンが開発したクロノメーターにすっかり魅せられていた。正式な資格こそないものの、やはり独学でクロノメーターや航海術について勉強を積んでいた彼は、今やクロノメーターが王立天文台(現グリニッジ天文台)でほったらかしのまま保管されている事を知って胸を痛め、押し掛けて行って自分に修理をさせてくれと頼み込む。


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幸い無償ではあるが修理を一任して貰える事となり、ハリソンが遺した4つのクロノメーターを、長い時間をかけて一つずつ丁寧に修復してゆくグールド。
だがクロノメーターにのめり込み過ぎるあまり家庭は崩壊、結局妻とのスキャンダルが素で天文台も追い出される事に。やがて戦争も始まり、焦った彼は精神状態を悪化させてしまう。それでもハリソンのクロノメーターへの情熱を諦めきれないグールド。もはやクロノメーターは、彼の人生の大切な一部となっていた……。


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とても感興をそそられる、良質な作品だった。実直な伝記映画ではあり、派手な演出や大袈裟な感動が期待されるような内容ではない。でもそんな雰囲気こそが、この物語には相応しい。それになんといっても、マイケル・ガンボン×ジェレミー・アイアンズ×グラナダである。この掛け算の積が素敵でないわけがない。UKでは数日間に分けて放送された番組だそうで、内容は200分と長尺だが、見甲斐は確かにあったと思う。

そういえば少し前に見たTVドラマの『BONES』で、丁度似たような話が語られていた。古い海図に纏わるエピソードだったのだが、曰く、
「航海術が生まれた時から、緯度の基準は変わっていない。どの時代も、皆が赤道を0度と認めてきた」
「でも経度は違った。今はグリニッジ天文台が0度という事になってるけど、昔は何百という基準地点があった」
「どれも其々が勝手に決めた地点(だった)」
私は科学には滅法疎いもので、なんとなく緯度と経度はいつも二つで一つのセットみたいな気がしていたし、それらの概念にしろ基準地点にしろ測定方法にしろ、てっきり大昔のどこか同じような時期(例えばルネサンス期とか、地球球体説が一般的になった中世のいつかとか)に同じようにして定められたものだろうと漠然と思っていたので、この話を聞いた時には随分驚いたものだった。
だが本作は、その驚きをより深いものにしてくれた。緯度も経度も、その概念自体はまぁ「大昔」から存在したわけだが、経度は緯度と違って複雑で大きな問題を孕んでおり、何処を世界的な基準地点(本初子午線)にするかという問題と、基準地点(それが何処だとしても)から見た現在地の経度をどうやって割り出すかという問題は、18~19世紀あたりまで解決されずに揉め続けていたのである(なお本初子午線に関しては、フランスだけは20世紀初頭まで国際決定を受け入れず、頑固にパリ子午線を採用していたらしい)。
また、当然ながら経度測定技術の確立は本初子午線の決定にも深く関係しており、本作の説明に拠ればジョン・ハリソンの功績のお蔭もあって、グリニッジ天文台が正式に本初子午線と定められるに至ったとのこと。つまりこの物語の主人公ジョン・ハリソンは、航海術のみならず標準時や時差といった国際的な時間の概念にも大きな革新を齎した、まさに偉大な功労者なのだ。

では何故、緯度と経度の問題にはこうも隔たりがあったのか。
まず水平方向の座標である緯度の方は、地球にはそもそも赤道という中心線が通っており、おまけに北極・南極という両端の目印まで存在するため、基準地点を決め易く、且つ赤道を基準とするのが誰の目から見ても最も理に適っていた。そして測定方法も経度に比べれば比較的シンプルで、北極星か太陽の高度を測れば赤道との角度から現在地の緯度を求める事が出来、既に大航海時代には、海上での緯度の測定は一定の水準で可能になっていたという。
それに対して垂直方向の座標である経度は、基準となり得る明確且つ公平な目印が、自然界には存在しない。測定に於いても、天体観測に加えて時間(時差)の計算が必要になってくる(どうやら他にも方法はあるようだが、どれも私にはよくわからない上、いずれも緯度の測定に比べて複雑な方法である事には変わりない)。
で、この「時差の計算」が、厄介だったのである。時差を計るには当然時計が欠かせないわけだが、古い時代では何しろ時計の精度が低い。時計というものは、兎に角すぐ遅れるものだったのだ。而も本作の舞台となった18世紀当時は、振り子時計が主流である。振り子時計は元々不安定な構造をしているし、懐中時計は、振り子よりも更に精度が低かった。それでも陸続きの地上で経度を測定するならまだ良いが、航海中の船上でとなると、長期間の航海に加えて船の振動や気温差による時計への影響は計り知れず、計算結果はおよそ正確とは言えないものになってしまう。大体が、経度を測定する必要があるのは殆どが海上か、海を渡った先での話なのだ。
18世紀の英国でも、長期の航海に於いても殆ど誤差が生じない精密な時計が経度の測定に有用である事は、理論的には認められていた。但しそれは、もしそんな時計が存在するなら、の話。そんなものは作れっこないと当時は誰もが考えており、したがって経度問題の行方は、事実上天文学者の手に委ねられていた。ところがそれを驚異的な技術力と不屈の精神で可能にしてみせたのが、このジョン・ハリソン御大だったというわけだ。而も彼は科学者ではなく、この時点ではプロの時計職人ですらない、田舎出身の「大工」だった。

とはいえ勿論、一朝一夕でこの偉業が成し遂げられたわけではない。彼はおよそ50年という、膨大な歳月をクロノメーターの制作に費やした。まさに生涯の殆どを、「経度への挑戦」に捧げたのである。
ハリソンの行く手を阻んだものは主に二つ。一つは、やはり技術の問題だ。初号機は比較的短期間で完成したのだが、いざ実験航海に出てみると、船上では縦揺れと横揺れが断続的に発生する事により、時計に遠心力が加わってしまうと判明。振動そのものには耐えてみせたものの、この想定外の遠心力はクロノメーターに由々しき誤差を生じさせ、その後長年に亘ってハリソンの頭を悩ませる事となる。2号機、3号機と改良を加えても、なかなか遠心力の問題は解決出来なかった。
然し4号機の制作にあたり、ハリソンはクロノメーターのデザインを思い切って変更。それまでの大型の振り子式から、両掌ほどのサイズの懐中時計型にしてみせたのである。振り子ではなくなった事で(多分……)遠心力の問題は解決、精度や強度も充分で、尚且つ小型・軽量化。既にハリソンは老人となり、息子のウィリアムもクロノメーターの制作を開始した頃の彼と同じくらいの年齢になってしまっていたが、兎も角、これで漸く彼らは懸賞金を手に出来るかに思えた。
ところが、今度はもう一つの問題が立ちはだかる。経度問題解決の為に設置された、天文学者のお歴々から成る「経度委員会」が、一介の大工に過ぎないハリソンの製品をなかなか認めようとしないのだ。老齢の父に代わってウィリアムが行った4号機の実験航海(正式な立会人付き)では、81日間の航海で生じた時間の誤差は僅か1分53秒半のみという、素晴らしい結果が出ていた。にも拘わらず委員会はあれこれと難癖をつけ、やれ1回の航海では実証に不十分だの、時計を分解して組み立て直してみせろだの、委員会でも独自に実験を行う必要があるだの、いちゃもんの嵐。職人気質で朴訥なさしものハリソン老御大も、委員会にはこれまでにも幾度となく煮え湯を飲まされてきただけにここでとうとう堪忍袋の緒を切らすのだが、観ているこちらとしても、こりゃやってらんないわ……と呆れかえること頻り。抑々経度問題の早期解決は、多くの人命の為ではなかったのか。一日でも早い採用に向けて尽力する事こそが、多くの人命と海運大国英国の未来を救う事になるのではないのか?
だがそんな中で、サクっと登場してサクっとハリソン親子にナイスなアドヴァイスをしてくれちゃうのが、皆さんお待ちかねビル・ナイ先生である。

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わあん今回も素敵……!!

こうした彼の助言のお蔭もあって、最終的には、ハリソン親子の功労はどうにか報われる事になる。

と、以上のように本作の一番のメインは、偉大なるジョン・ハリソンの飽くなき挑戦へのドラマだ。が、その一方では、20世紀に生きるグールド元少佐が語り手となって登場し、彼の物語もまた、ハリソンのそれと完全な平衡を保って進んでゆく。
グールドの物語も魅力的だから、異なる時代の二人の人物を主人公にして作品を構成した事は、基本的には良い選択だったと思っている。ジェレミー・アイアンズの存在も、勿論素晴らしい。彼が遠い日のジョン・ハリソンの苦労に思いを馳せつつ、まるで一旦は壊れてしまった自分の心を組み立て直すかのように、丁寧に丁寧に時計を修理していく様子は味わい深いものだ。それに彼の存在があるからこそ、ハリソンのクロノメーターが単に高性能であるだけでなく、時計として如何に美しい佇まいを持っているかが観客にもじっくりと伝わる。ついでに言えば、胸を弾ませて廊下をスライディングする貴重なジェレミー・アイアンズの姿も拝める。
ただ惜しむらくは、グールドの物語の方は時間を割いている割には内容が薄い。彼が何故海軍で神経を病んだのかは語られないし、クロノメーターとの出会いや、何故それに魅入られるようになったのかについても一切説明がなかった。せめて全てのクロノメーターの修理が完了したシーンでもないことには、観客としてはなかなか彼の気持ちを一緒に分かち合えないのだが、それすらもない。グールドのパートも存在価値は充分あっただけに、彼の心情に肉薄出来ていなかったのは勿体なかったと思う。

然し何にしても、日本ではホームメディア化されていない本作が、もっと多くの人に鑑賞する機会が与えられて然るべきアトラクティヴな作品である事には違いない。




by canned_cat | 2015-08-10 22:41 | UK映画 | Comments(0)

『声をかくす人』


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2010年 USA
4.5 /5点満点

リンカーン大統領の暗殺に関わったとしてアメリカで女性として初めて死刑に処せられたメアリー・サラットの史実を基に、その裁判の過程をできるだけ忠実に再現して描き出した法廷ドラマ。(allcinemaより)
監督は、『スティング』の俳優ロバート・レッドフォード。
フレデリック・エイキンに、『ペネロピ』『ジェイン・オースティン 秘められた恋』『Starter for 10』 『終着駅 トルストイ最後の旅』、ドラマ『ステート・オブ・プレイ〜陰謀の構図〜』のジェームズ・マカヴォイ。
メアリー・サラットに、『フォレスト・ガンプ/一期一会』『ベオウルフ/呪われし勇者』のロビン・ライト。
ジョンソン上院議員に、『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』 『ワルキューレ』 『ゴーストライター』 『グランド・ブダペスト・ホテル』のトム・ウィルキンソン。
アンナ・サラットに、『バレット・オブ・ラヴ』のエヴァン・レイチェル・ウッド
ジョン・M・ロイドに、『ゴースト/ニューヨークの幻』『路上のソリスト』『ヤギと男と男と壁と』のスティーヴン・ルート。

1865年4月。北軍の勝利という形で南北戦争が事実上の終結を迎えたその数日後、南軍の残党によってリンカーン大統領が暗殺され、時を同じくして副大統領及び国務長官の暗殺未遂事件が発生するという、文字通りアメリカ国家を揺るがす大事件が起きる。偉大なリーダーを喪失し国中に悲しみと怒りが渦巻く中、主犯の男は間もなく発見・射殺され、共犯と見られる男女8人も後日逮捕された。その中で唯一の女性であった下宿屋の女主人メアリー・サラットは、実行犯でこそなかったが、一味の重要人物の母親であり下宿をアジトとして犯人達に提供したとして、共謀者と見做されたのであった。
だが彼ら8人は民間人であるにも拘わらず、一般の法廷ではなく軍法会議で裁かれる事となる。おまけに裁判長も判事も検事も全て陸軍長官の息の掛かった人物で固められ、異例の事件とはいえおよそ公平性に欠ける裁判が始まった。
これを大いに疑問視した元司法長官のジョンソン上院議員は、日頃から信を置いている若き弁護士・エイキンにメアリーの弁護を依頼。元北軍大尉でもあるエイキンはリンカーン暗殺事件に並々ならぬ憤りを抱いており、到底引き受けられないと一旦は拒絶するも、ジョンソン議員に法の正当性の大切さを説かれ、渋々弁護につく。
メアリーは一貫して無実を主張するが、それを決定づける証拠はない。然し検察側が挙げ連ねる有罪の証拠も、どれも強引で信用性に欠けるものばかりだった。にも拘わらず裁判官が悉くそれらを採用し、予断と偏見に満ちた裁判が進んでいくのを目の当たりにしたエイキンは、次第に法の番人としての正義感に衝き動かされるようになっていく。エイキンには陸軍トップからの圧力が掛かり、その上メアリー本人も息子を庇う気持ちから多くを語ろうとはしない。それでもエイキンは何とか彼女を不当な判決から救おうと奔走するのだったが……。


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良い映画だった。
派手ではないけれど、実直で誠実な内容だったように思う。法廷劇としてはもっと”ここぞ”という見せ場が欲しかった気もするが、然し実際には本作は「法廷劇」である事よりも「歴史映画」である事の方に重きが置かれているのだろうから、それも良しである。何より本作には、リンカーン暗殺事件のような余りにも悼ましく許しがたい大きな悲劇が起こったとき、その陰には人々が容易く陥ってしまいがちな危険な罠も潜んでいるのだという事を、真摯に見極めようとする姿勢があった。役者さんも良かったし(特にロビン・ライトの静かだけれど力強い演技が素晴らしい!)、当時の時代性を徹底的に追求して色彩や光彩に至るまで拘ったという映像も、この作品に一層説得力を与えていた。

「疑わしきは罰せず」。それが法の大原則である。たとえどんなに疑わしく思える人物でも、正当な根拠がない限り有罪となってはならない。そして裁判が済んでいない限り、その人物はあくまでも推定無罪の状態にある「容疑者」乃至「被告人」であって、「犯人」ではない。或いは仮に何かの罪で有罪であったとしても、それ以外の不当な罪を着せる事は許されないし、またその罪状に相応しない不当な判決を下してもならない。それ以前に、そもそも裁判は正当な手続きの許に行われなければならない。
私自身、こうした法の原則はいつ如何なる時であっても、如何なる事件の如何なる人物を相手にしようとも、徹底して守られるべきだと思っている。無論、時にはそれが却って正義の邪魔をする事になったり、その所為で犯人を取り逃がしてしまう事にもなりかねないという事は承知しているが、それでもなお、絶対に遵守するべきだと思っている。人が人を裁く以上、どこかに必ず越えてはいけない壁を設けておく必要があり、そして結果的にはこの原則を遵守する事こそが、正義への一番の近道になると信じているからだ。
けれどもこの事件の裁判、少なくともメアリーの裁判に関しては、その意味での正義は果たされなかったようである。彼女の罪状は”アジトの提供”なわけだが、まずもって当局はそれを強引に「共謀」と結びつけた。そして非公正なやり方で軍法会議に掛けた上、裁判官も検察も政治家も世論も、端から”彼女は有罪か否か”ではなく”彼女は如何に有罪か”を問題にしてしまっていた。本作は、その誤った(或いは行き過ぎた)判断に立ち向かおうとした、一人の若き弁護士の物語である。

何しろ古い時代の話だから、当時はまだ、司法にこうした不当な裁判が罷り通ってしまう余地があったのかもしれない。然し何と言ってもこの事件の場合、やはり相手がリンカーンだったのがまずかった。アメリカが世界に誇る、人格者の名に相応しい偉大な大統領であり、多くの国民から愛され慕われた稀代のリーダー、エイブラハム・リンカーン。彼が無惨にも暗殺されてしまった事で、人々は怒りに燃え、犯人"らしき"人物は全てその時点でにっくき仇となって彼らの目に映り、世論は加熱の一途を辿った。おまけに時期も悪かった。事件は南北戦争が終結したかしないかという極めて国政の不安定な時期に発生したため、当然政治への影響が強く懸念された。そこで政治家達は、挙って事件の早期解決と犯人グループの厳重な処罰を望んだのである。それは勿論、多くの国民の報復感情を満たす事にも繋がった。
そんな複雑な背景も絡んだ大事件の渦中で、まずこの裁判に異を唱えたのが元司法長官のジョンソン上院議員だ。彼の台詞が良い。
”我々のリーダーを失ってしまった事は誰にとっても悲劇だが、それが正当な裁判制度を逸脱し異端審問を許す理由となってはならない”。
いや、全くその通りである。彼はエイキンにメアリーの弁護を依頼するが、渋るエイキンに放った台詞がまたぞろ小気味良い。
”彼女の有罪を証明出来たら降りてもいいぞ”。
結局エイキンには、メアリーの有罪を決定づける証拠は見つからない。但し、その代わり無実を証明する決定的証拠も見つからなかった。所謂「悪魔の証明」というやつで、何か(この場合、メアリーの事件への関与)が「有ったこと」を証明するのは比較的容易だが、何かが「無かったこと」を証明するのは極めて難しいものなのだ。彼女の息子・ジョンの有罪を立証出来れば状況は幾らか違ってくるかも知れないものの(尤も、この点については個人的には疑問を感じている。息子の方が正犯である事が判明したからといって、彼女の嫌疑が晴れるわけではない筈だ)、メアリーは息子に関しては口を閉ざすばかりだった。

ただ面白いのは――そして本作に於いてとても重要なのは――、その後メアリーの弁護に努めるようになったエイキンが最も問題視していたのが、”彼女が有罪か否か”ではなかったという事だ。エイキン自身、彼女は無実だと思うかと問われ、「わかりません」とはっきり答えている。つまり彼がメアリーの為に尽力したのは、彼女が無実だと信じたからではなく、あくまでも彼女に法で保障された正当な権利を与える為であり、法律家として断固憲法の遵守に努める為なのである。正当な裁判を開き、適切な審理を行った後に適切な判決がメアリーに下されること、エイキンの願いはそれに尽きていた。
彼女が本当に事件と無関係だったのかどうか、それは私たち観客にも明確には明かされない。だからこの映画は、”無実の死刑囚を救う為に奔走した心優しい弁護士”のお話などでは決してない。でも、だからこそこの作品は良い映画だと思うのだ。何故なら先程述べた通り、如何なる事件の如何なる人物を相手にしようとも法の原則を守る事、そしてそれに努めようとする事は、真の正義を果たす為の重要な第一歩であるのだから。
この物語の約1年後、アメリカの最高裁は、戦時であっても民間人を軍法会議で裁く事を禁じたという。エイキンの孤独な戦いが最終的には実を結んだ事を思うと、ほっとする思いがした。

なお邦題は「声をかくす人」となっているが、実際にはメアリーは無実の主張はしているし、事件に関しても彼女に出来得る範囲内では語ってもいるので、残念ながら適切なタイトルとは思えない。而も声をかくすだなんて、何だか変に気取った言い回しをしているところも個人的には気に入らない(笑)。原題は「The Conspirator」、即ち「共謀者」である。こちらの方は、一体何を以て共謀とするのか、そして共謀者にはどれだけの罪があるのかなど、観客に強く訴えかけてくるような良いタイトルだと思う。
因みに全くの余談だけれども、エンディングテーマにRay Lamontagneの「Empty」が使われていたのにはかなりテンションが上がった。大好きな映画『デタッチメント 優しい無関心』でも使用されていたけれど、あれはなんとも良い曲だ。




by canned_cat | 2015-07-04 22:19 | USA映画 | Comments(0)