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『ザ・プレイヤー』


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1992年 USA
4.5 /5点満点

ハリウッドの大手映画スタジオでバリバリの業界人として働くグリフィン・ミルは、企画や脚本の採用/不採用を決める重要な役職にあった。しかしある時から、彼の殺害を仄めかす匿名の葉書きやファックスが次々と職場に届くようになる。差出人は以前門前払いにした売れない脚本家のデイヴィッド・ケヘインに違いないと踏んだグリフィンは、デイヴィッドに直談判しに行くも、なんと口論の末にカッとなって殺してしまう。その場は犯行を隠蔽して立ち去るグリフィンだったが、デイヴィッドが殺される直前に会っていた人物として、警察からは目を付けられる事になる。一方、この一件で彼はデイヴィッドの恋人だったジューンと知り合いになり、二人の距離は急速に縮まってゆく。また時を同じくして、競合会社の敏腕プロデューサーがグリフィンの会社に引き抜かれ、彼の立場の脅威と化す。かくして、グリフィンの身辺はにわかに騒がしくなるのだったが……。

監督は、『ゴスフォード・パーク』のロバート・アルトマン。
グリフィン・ミルに、『あなたになら言える秘密のこと』『ショーシャンクの空に』『未来は今』のティム・ロビンス。
ジューンに、『レッド・バイオリン』 のグレタ・スカッキ。
デイヴィッド・ケヘインに、『エド・ウッド』『キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語』『ジュラシック・ワールド』『マグニフィセント・セブン』『疑わしき戦い』『ジャッジ 裁かれる判事』のヴィンセント・ドノフリオ。
エイヴァリー刑事に、『ゴースト/ニューヨークの幻』『天使にラブ・ソングを…』『天使にラブ・ソングを2』のウーピー・ゴールドバーグ。
トム・オークリーに、『ペネロピ』『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』『ある貴婦人の肖像』 『ドラキュラ』『ゴスフォード・パーク』 『ある女流作家の罪と罰』 『人生はシネマティック!』のリチャード・E・グラント。
ラリー・リーヴィに、『あなたが寝てる間に…』『未来は今』のピーター・ギャラガー。
その他、ジャック・レモン、ピーター・フォーク、シェール、マルコム・マクダウェル、ジョン・キューザック、ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィリスなど。


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本作のメガフォンを取ったロバート・アルトマンという監督は、ギリギリまでストレートと見せかけて、突然急落下するフォークボールを投げて寄越すような人である。彼の映画では、後ろ姿ではジャネット・ジャクソンに見えたのに振り返ったら木の実ナナだったとか、クリンゴン語だと思ってたけどよくよく聞いてみたらナヴィ語だったとか、そんな事もザラである。つまり(?)、途中まではわかりやすい筋書きへと観客を誘導しておきながら、しれっと全く違う方向にオチを持ってくる人なのだ。
よって本作も、一見するとハリウッドで毎日ブイブイ言って暮らしている売れっ子映画人の哀れな転落劇、と思いきや意外な感じの結末が待っているわけだが、しかしこの監督は腕は確かな人で、決して意味もなく観客をおちょくったりはしない。彼はいつだって意味のある所に意味のある諧謔を持ち出し、意味のあるタイミングで意味のある方向に道筋を曲げる。だから面白いのである。

主人公のグリフィンは、毎日山のようにオフィスへ持ち込まれる映画の企画に対し、いかにも業界人らしく「ううむ!」「いいねいいね!」などと頷いてはその大多数をボツにしている人物だ。その持ち込まれる企画というのが、大抵はヒット作の二番煎じだったり、それかリメイクや続編だったり、さもなければヒット作とヒット作を掛け合わせたような筋書きのものだったりして、はっきり言ってろくなものがない。かと思えば芸術家気取りの若い脚本家が、これこそ究極のリアリティだとか言って大上段に構えた悲劇を持ってきたりもするが、そんなまやかしも当然グリフィンには足蹴にされる。しかし、それなら彼に採用してもらえるような映画はどういうものかと言うと、結局は派手でアクション一辺倒で大団円に終わるだけのブロックバスターものばかり。本作ではそんな映画産業界の、したたかなんだかみみっちいんだかわからないような実状を、こてんぱんに風刺して描いている。
そしていよいよ殺人事件が起き、仕事も私生活も何もかもが窮地に陥ってゆくグリフィンだが、これはイージーさとは縁遠い作品であるので、そう簡単に破滅とはならない。捕まりそうで捕まらなかったり、死ぬかと思ったけど死ななかったり、泥エステという名の泥沼にハマってみたり、とぐろを巻いた蛇はやっぱり永劫回帰の象徴かしらなんて思ってみたり、そうこうしているうちに、わたしたちは例の「全く違う方向のオチ」へとたどり着く。
最終的には、真相は何だったのか、境界線はどこにあったのか、何が本物で何が見せかけだったのか、本心で話していたのは誰で、そうでなかったのは誰なのか、そのあたりが何ともあやふやにぼかされた状態で幕が下りる。だいたい、観終わってもタイトルの意味がわからないままだ。ザ・プレイヤーというのは俳優の事だろうか? でも主人公は俳優じゃないし、それらしいザ・俳優も出てこなかったし……。
そう、この作品は決してイージーではないんである。だが、やたらめったらに難解でもない。ただし小難しくない代わりに、絶妙に巧く出来ている。超大物と呼べる俳優達がまるでエキストラみたいに次々通りすがるので、いったい製作費(ギャラ)に幾らかかったのかと内心気が揉めない事もなく、というかよくそんな通りすがりの役の出演をみんなOKしたよなと思ったりもしたが、こんな優れた監督の優れた映画なら、チラッと顔を出してみせるのも悪い気はしないに違いない。

一番面白かったのは、グリフィンが警察署に呼ばれ、ウーピー・ゴールドバーグ演じる刑事たちの前で写真の確認をさせられるシーン。容疑者であるグリフィンをあえて落ち着かない気分にさせようと、刑事たちがあの手この手でそれとなく気まずい空気を作る作戦に出るのだが、スッとぼけた彼らが笑えるのなんの。イライラしてるグリフィンをよそに、わたしまで笑いがこみ上げて止まらなかった。あんなに笑えて、そしてあんなに巧妙に作られていたこのシーンは、きっと「なんか凄かったシーン」として映画史に輝かしくその名を残す事だろう。




# by canned_cat | 2022-08-08 17:45 | USA映画 | Comments(0)


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2013年 USA
4.3 /5点満点

高齢の父親が高速道路をふらふら歩いていたところを保護されたと、警察から連絡を受けたデイヴィッド。父親のウディは、なんでも100万ドルの懸賞に当選したという手紙が来たとかで、金を受け取るためにモンタナ州からネブラスカ州へと遥々向かおうとしていたと言う。その手紙はどう見ても昔ながらの詐欺でしかなく、デイヴィッドも彼の母親もウディに繰り返し説明するが、ウディは当選したと信じ切って一切耳を貸さず、どうしてもネブラスカのリンカーンへ行って金をもらうと言って聞かない。何度止めても家を出て歩いて行ってしまう父親を見かねて、とうとうデイヴィッドは車で一緒にリンカーンに出かけるのだったが……。

デイヴィッドに、ウィル・フォーテ。
ウディに、『ジャンゴ 繋がれざる者』『ヘイトフル・エイト』 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のブルース・ダーン。
デイヴィッドの兄のロスに、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』のボブ・オデンカーク。
ウディの妻のケイトに、ドラマ『ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則』のジューン・スキッブ。
エド・ピグラムに、『エスケープ・フロム・L.A.』『ロング・ライダーズ』のステイシー・キーチ。


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全編モノクロで語られる、派手さはないがなかなか味のある作品。発表年度にはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを争い、ウディ役のブルース・ダーンが主演男優賞を受賞した作品でもある。

ウディは昔からアル中まがいの酒飲みで、頑固で無口、デイヴィッドの兄曰く息子たちに関心を払って来ず、いつも奥さんにガミガミ言われながら無言で酒を呷って暮らすだけのうだつの上がらない自動車整備工、そんなような人だったらしい。よって、彼ら一家は取り立てて仲の良い家族でもない。とはいえこんな年老いた親が、いくら止めても毎日ふらふら出かけて行ってしまうとなると、息子としては流石に心配で、本人が納得するまで付き合ってやるしかないという気持ちにもなる。デイヴィッド自身もまあまあうだつの上がらない感じではあるが、あまり愛情深くない父親と口の悪い母親の許で育ったにしてはずいぶん善良な、優しい息子だ。
すったもんだしてウディに手を焼きつつも、デイヴィッドが運転する車はネブラスカ州のウディの生まれ故郷の町に入る。二人はウディの兄一家宅に暫時世話になり、ついでに親戚一同が続々と集まって食事会が開かれる事になるのだったが、馬鹿の付くほど正直者なウディが100万ドルが当たったとあっさり口にしたせいで、その話は町じゅうに広がってしまう。お蔭で親戚からは昔工面してやった金を返せと迫られ、元仕事仲間からもあるかないかわからないような因縁をつけられて金をせびられる始末。懸賞だの宝くじだのに当たった話をすればそりゃあこうなるだろうと思うが、実際には「当たっていない」から話は厄介だ。デイヴィッドやロスが「本当は当たってないんだってば!」と必死に訴えても、金を惜しんで嘘をついているとしか受け取ってもらえず、そんな中でウディが「ちょっとなら貸してやってもいいよ」とか何とか口を挟むもんだから、話が余計ややこしくなる。
このあたりのエピソードはコメディとしても成立しそうだけれど、本作では特にコミカルな描かれ方はしていない。どちらかというと淡々とした調子で、ウディのトボけた佇まいや物言いだとか、わらわらと集合するおじーちゃんおばーちゃん達とか(誰が誰やら)、金の匂いに吸い寄せられる市井の人々の姿(正直に「金が欲しい」とは絶対に言わず、決まって「筋を通してもらいたいんだ」みたいな曖昧な言い方しかしない)だとかを、観察するみたいに眺めているような作りになっている。個人的にはそこにかえって可笑しみを感じたというか、人間が生きて暮らしているだけで時々発生する地味な可笑しさをところどころで感じられて、結構面白かった。

恐らくは大人になってから初めて父親の故郷を訪れ、ウディのかつての友人知人から昔の話を聞いたデイヴィッド。ウディが語らなかっただけで、彼には実は意外な過去があり、お酒ばかり飲むようになったのにもそれなりに理由があったらしいとデイヴィッドは知る。べつに誰もがびっくりするような驚きの過去ってわけじゃないけれど、不愛想で何を考えてるのかよくわからないあの父親にも彼なりの人生があったんだなあ、と息子が感慨を深くするには充分なものだったはずだ。それに、ウディを昔から知る人で、彼を悪く言う人は一人もいなかった事も、デイヴィッドには大きかったんじゃないかと思う。さして褒められるわけでもないものの、ウディに対して否定的な評価を下す人は故郷に一人としていないのだ。反対に、複数人の口から出たのは「お人よし」とか「人を信じやすい」といった言葉で、せこい親戚連中や知人たちに比べれば、それはむしろ美点と言っても良いくらいだった。元々、人が良いから詐欺の手紙でさえ信じてしまい、ネブラスカまでえっちらおっちらやって来たのである。おまけに、100万ドルで何がしたいかと言えば「ピックアップトラック買いたい」「コンプレッサーも買う、人に貸したけど返ってこないから」ぐらいのもので、100万ドルへの執念を見せたわりには欲がないと来ている。こういうウディの人柄、父親である以前に一人の人としての人柄に接する機会を得られたのは、デイヴィッドにとって幸いな事だったに違いない。10年後や20年後に、きっとロスと酒でも酌み交わしながら、「親父が100万ドル当たったって言いだした事あったよな」「あれには参ったよなあ」なんて笑い合える抜群の思い出となろう。

ウディを演じてカンヌを制したブルース・ダーンの、ドクかアインシュタインかみたいなとっ散らかった白髪頭は何とも強烈な印象を残す。いつも会話のテンポが遅く、たびたび「……はァ?」と言って訊き返す様子などは耳の遠いその辺のお年寄りにしか見えないし、頼りなげにフラフラと彷徨い歩く後ろ姿も、いかにも徘徊しているお年寄り風。だが、相手はあのジョン・ウェインを殺した事のある数少ない俳優の一人、ブルース・ダーンだ。もちろんそれも演技に決まっている。息子たちに何か残したかった、とこぼす彼に漂っていたあまりにも寂しい哀愁、あれはちょっと忘れられそうにない。
そして、ラストで二人がちゃんと交代するシーン。あれこそ本作が優れた映画である事を示す証拠の最たるものであり、この映画が持つ幾つもの佳良なシーンの中の白眉だと私は思う。そう、敬意をもって用意された花道も、いずれ何処かで終わるのである。親と子はいつかは役割を交代するのである。だけど、それで良いんである。




# by canned_cat | 2022-05-26 17:42 | USA映画 | Comments(0)


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2012年 UK・アイルランド
4.5 /5点満点

人気の高いインディーズ・パンクバンドを幾つも世に出した事で知られる、北アイルランドの有名なレコード店及びレコードレーベル「グッド・ヴァイブレーションズ」の経営者、テリー・フーリーの物語。
1970年代初頭の北アイルランドでは、カトリックとプロテスタントの間の対立などが原因で紛争が勃発し、主要都市のベルファストでも毎日のように死傷者が出たりと危険極まりない状況が続いていた。ベルファストにある酒場でDJをしていた音楽マニアのテリーは、政治思想を巡って地元の人々が対立しあう事にも、宗教問題でかつての友人達が敵対してしまった事にも、皆が音楽どころではなくなって誰も店に聴きにこなくなった事にも、ほとほとうんざりしていた。せっかく酒場で出会った素敵な女性・ルースと結婚してそれなりに幸せに暮らそうとしていたのに、周囲で繰り広げられる争いは一向に終わらず、それどころか日に日に身に危険が迫るばかり。そこでテリーが思いついたのは、「北アイルランドに平和をもたらす事業」と称し、爆弾横丁と呼ばれる危ないストリートに敢えてレコード店を開く事だった。
顔の広いテリーは、界隈に住む好戦的な連中にあらかじめ話をつけて店の安全を確保し、資金も何とか工面して晴れて開店に漕ぎつけるも、案の定お客など来ない。しかしある日10代のバンド少年が店を訪れた事がきっかけでライヴハウスに顔を出してみると、そこでは大勢の若者たちがパンクロックで盛り上がり、見回りに来た警官たちに音楽で堂々と対峙する活躍ぶりを見せていた。彼らの音楽と姿勢にすっかり感激したテリーは、彼らを支援し、こうしたパンク音楽をもっと盛り上げていこうと奮起するのだったが……。

テリー・フーリーに、リチャード・ドーマー。
ルースに、『Perrier's Bounty』のジョディ・ウィテカー。
録音スタジオのエンジニアに、『戦火の馬』 『麦の穂をゆらす風』 『タイタンの戦い』 『プルートで朝食を』『Perrier's Bounty』『HUNGER/ハンガー』のリアム・カニンガム。


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NYに「CBGB」あれば北アイルランドに「グッド・ヴァイブレーションズ」あり、どうやらそういう事らしい。

'70年代初頭と言えばちょうどビートルズが解散したぐらいの時期で、彼らの活躍に牽引されて世界的にロックがビシバシ盛り上がっていた頃だと思う。なのに仮にも英国の一部である北アイルランドでは、誰も彼もが激しく争っていて、人が次々と殺されて、音楽の「お」の字もない状態。おいおい皆どうしちゃったんだよ、こないだまでラヴ&ピースを歌ってた世界はどこにいったのよ、と、テリーは憤慨してもいれば悲しんでもいた。だからって爆弾が飛び交うような横丁に店を構えるとは大胆にも程があると言えそうだが、それだけ彼はこの世の中をどうにかしたかったのだ、それも、自分達の世代が沢山のものを学んできた「音楽」という手段で。
数多くの音楽映画が存在し、私も幾つもの作品を観てきたけれど、その中でも独特な時代背景を持つ本作からは「音楽が生まれる必然性」みたいなもの、つまりこの世界に音楽が必要である理由が、主人公たちがサヴァイヴしてきた過酷な近代史を通して力強く伝わってきた。作中で流れるカッコイイ音楽を楽しんだり、若者らしい情熱に胸を焦がしたり共感したりする、それが音楽映画の基本的な醍醐味であるしこの映画でもそれは味わえるのだが、何といっても登場人物たちが紛争の只中で死と隣り合わせで暮らしている事を思えば、彼らは文字通り「必死」の思いで音楽を発信しているのであり、音楽とはこんなに必死で切実なものだったのか、と呆然とすらしてしまう。
私は子供の頃に小室ファミリーが大活躍していた世代の生まれだ。片一方の足をバブルの社会に、もう一方の足をその後の不景気な社会に突っ込みつつ、それでもまあまあ平和な内容の歌、つまりはそういう音楽を聴いて育ったわけである。もちろん、平和な世界で平和な歌が生まれる事は良い事に決まっている。が、15歳くらいになって世の中の一部に敵意を抱き、向こうからも抱かれ、精神的な意味で戦う必要が出て来た時期に、あるシンガーソングライターが「私はこんなもののために生まれたんじゃない」というような歌詞で歌うのを聴いて、「この人、歌で文句言ってる!」と雷に打たれたような衝撃を受けたのを覚えている。反体制の音楽とか反骨精神で歌う歌はべつにもっと昔からあったわけだけど、当時の私はそうとは知らなかったのだ。そうやって、その頃初めて認識した「生き抜くための武器(他を傷つける危険物という意味ではなく)」としての音楽の存在の大きさ、或いはその威力といったものを、この映画を観て久しぶりに思い出した気がする。

まあ、そう言うと相当シビアな作品に聞こえてしまうかもしれない。否、内容が結構シビアな事には違いない。が、映画全体の印象は意外とそうでもないのだ。何となればそれは主役のテリーを演じた俳優が愛嬌の化身みたいな顔をしたリチャード・ドーマーだからで、こういうお話の看板に彼を選んできたキャスティングスタッフは並外れた慧眼の持ち主と言えるだろう。ドーマー氏には本作で初めてお目にかかったけれど、外の世界で起きているきな臭い争いをよそにニカーッ! と笑って何事もやり過ごす曲者感と、何かっていうとパチパチお目目を瞬いて可愛げに訴えてくる卑怯者感、いやどっちも良い意味で(笑)、憎めないにも程がある。最早顔芸のレベルで表情がくるくると変わる様はたいへんコミカルだったし、自分よりも一回りぐらい若そうな連中に混じって大フィーバーしてたり、新しい音楽に出会えた感激で無防備にむせび泣いたりする、そのどんな姿も素直で、愛くるしいとさえ思えた。
もっともテリーは音楽に身を捧げすぎていて、採算を度外視するから経営はいつも大赤字、いつでも味方になってくれる素敵な奥さんや可愛いベビーをそっちのけにしてライヴを開催したりツアーに行ったりして、割とダメな男だったりはする。彼に振り回される側の人の苦労を思うと、無論そちらにも同情を禁じ得ない。但しテリーの場合、音楽はもう趣味の範疇をとっくに超えて、世界を変えるための彼の信念や使命なのだ。特別な大義のためには、時として他の何かや誰かが犠牲を払わなければならないというのは、恐らく世の常であろう。仕方ないと切り捨てるのは些か酷な気がすれど、もし私が間近にテリーの信念と熱意と、それから街のあの惨状を目撃していたら、犠牲を払ってでも彼を支えてやろう、そうする価値はあるはずだ、そう思えるのではないかという気もする。

ところで、終盤のテリーの台詞の日本語訳について考えた事を少し書いておきたい。
“When it comes to punk, New York has the haircuts, London has the trousers, but Belfast has the reason.”
これの日本語字幕が、
「パンクが俺達に与えてくれた物……
ニューヨークの人々には新たな髪型を
ロンドンの人々には新しいファッションを
だがベルファストの人々には生きる理由を与えてくれた!」
となっていた。確かに訳しづらい台詞だけれど、決め台詞の一つなのだから、もう少しニュアンスを原語に近づけたいところかなと思う。この台詞は、言うなれば「パンクに関しちゃ、ニューヨークには(パンクをやるための)髪型が、ロンドンには(パンクをやるための)ズボンがある、だがベルファストには、(パンクをやるための)理由がある!」という意味合いだと思われるが、うーん、いや、本当に日本語にするのは難しい。でも、「生きる理由」と書くのはちょっとやりすぎだと思うのだ。うーん。




# by canned_cat | 2022-05-23 22:07 | その他地域映画 | Comments(0)

『コリーニ事件』


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2019年 ドイツ
4.1 /5点満点

2001年、ドイツ産業界の大物として知られるハンス・マイヤー老人が、残忍な手口で殺害されてホテルで発見された。被害者が富も名誉も獲得していた著名人であった事から大きな騒動となるが、明らかな物証と共にすぐに逮捕されたのは、マイヤーとの繋がりが不明な、30年前にイタリアからドイツに移住したファブリツィオ・コリーニという一般人だった。近頃弁護士になったばかりのカスパーは、事件についてよく知らないまま国選弁護人としてコリーニの弁護を引き受けてしまうが、被害者がマイヤーと知って愕然とする。実はマイヤーはカスパーの亡き親友の祖父で、幼い頃にトルコから移住してきたカスパーの面倒を何くれとなく見て、弁護士になれるように支えてくれた大恩人だったのだ。
マイヤーの孫娘のヨハンナとは今も親交があるカスパーは、板挟みとなって苦しみながらも、結局コリーニの弁護を担当し続ける。ところが、コリーニは黙秘したまま一言も口を利かず、マイヤーとどういう関係にあったのか、一体なぜ殺したのかがさっぱりわからない。犯行の残忍さとその証拠だけは充分に揃っているため、コリーニの立場は圧倒的に不利、このままでは簡単に裁判が終わるのは目に見えていた。しかし押し黙るコリーニの表情にただならぬ事情を感じ取ったカスパーは、独力で懸命に調査を進め、とうとう第二次世界大戦中のイタリアで起きたとある事件に行き着くのだった。

カスパー・ライネンに、『THE WAVE ウェイヴ』のエリヤス・エンバレク。
ファブリツィオ・コリーニに、『ジュリエットからの手紙』『ジャンゴ 繋がれざる者』のフランコ・ネロ。
ヨハンナに、『セントアンナの奇跡』『コッポラの胡蝶の夢』『ヒトラー 〜最期の12日間〜』『ラッシュ/プライドと友情』『フランス組曲』『愛を読むひと』のアレクサンドラ・マリア・ララ。
検察官のライマースに、『白いリボン』『東ベルリンから来た女』『戦火の馬』『誰よりも狙われた男』『イングロリアス・バスターズ』『ミケランジェロの暗号』『ある画家の数奇な運命』のライナー・ボック。



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良く出来た法廷劇と聞いて、観るのを楽しみにしていた作品。何しろ原作の小説が、現役弁護士でもあるドイツの人気小説家フェルディナント・フォン・シーラッハの作品である時点で、一定以上の面白さは約束されているも同然だろう。私自身は原作は未読なのだけれど、シーラッハの他の作品なら2冊ほど読んだ事があり、どちらも割合気に入っている。犯罪とその裁判にまつわる話が多い彼の小説では、いかにも有能な法律家らしく理路整然と物語が語られ、客観的な事実だけを正確に読者に伝えるよう気を配ってあり、主観や想像といった書き手による手心はほとんど加えられていない。そういう徹底されたフェアネスと、法の確かさと不確かさについて同時に深く考えさせられるような題材を常に選んでくるところが、彼の本の持ち味である。とはいえ、それらの特徴は翻って文学的滋味を欠いた味気無さにもつながってしまうわけで、個人的にはまさにそこが「割合」しか気に入っていない理由というか、もうちょっと濃い味の方がいいな~、すいませんお醤油かおソースもらえませんか~、みたいに毎回感じる所以でもある。

映画の方の話に移ろう。とても良かった点もあれば、イマイチな部分もちょこちょこあり、総合的には「それなりに良かった」ぐらいの感想となろうか。親しみやすい人柄と功績を高く評価されていた経済界の大物を殺した犯人が捕まって裁判にかけられて、被害者の身内も同然で育った新米弁護士が迂闊にも意気揚々と被告人の弁護を引き受けてしまい、被告が一切を黙秘しているせいで極刑を逃れる術がまるでなく、だが半ば意地のようにして被告の過去を色々探ってみたら、被害者との思わぬ関係が浮かび上がり、そして過去の時代の恐ろしい事件も掘り起こされる事となる、そんなお話だ。
案の定、題材が良い。加えて、さすが、物語の構成がきっちりと計算されている。但し、どうにもシーラッハっぽさが漂ってしまっており、理路整然とした起・承・転・結がきちっきちっと展開してハイ終わり、みたいな味気なさを感じた事は否定できない。
一方でキャストはかなり良くて、特にシニア陣がものすごい存在感を放っていた。まずは顔つきからして壮絶な雰囲気の、被告人役のフランコ・ネロ。尋常でない目力に、民話に出てくるおっかない鬼みたいに吊り上がった太い眉、マイク真木と1、2を争えるほど似合う束ねた長髪。わけても全身から放たれているものものしいオーラは、それだけでクルミの殻が2、3個粉々に割れそうである。見るからに重大な訳あり風を装える彼以上に、この役に相応しい俳優もいまいと思う。
それから検察側に協力するベテラン法律家・マッティンガー教授を演じた、ハイナー・ラウターバッハも良かった。こちらもいかにも年功者の余裕と狡猾さとを漂わせた風貌で、ロマンスグレーを靡かせながら自前のヨットなんか乗り回しちゃったりして、イケオジ感がハンパないのなんの。法廷でも、被告人が訳ありなのは一目瞭然ながら、その「訳」にあっさり負かされる事なくビシィッと強烈にやり返してくるあたり、期待を裏切らない存在である。
その他、主人公の疎遠な父親役の俳優などもなかなか良い味を出していたと思うのだが、この親子エピソードは今一歩盛り上がらずに終わってしまった印象だ。なんといっても、主人公のカスパーにとっては実の父より仲の良かった親友の祖父が殺されて、その加害者を弁護しなければならない状況になってようやく実の父と交流を持つ事になったわけで、彼らの関係の進展具合は物語の中で大きな役割を担えた可能性があったのに、結果的にはただの不発弾でしかなかった。そもそも、移民というカスパーの設定自体、話の中に上手く盛り込めずに終わっている。本来、移民という点でカスパーは被告と同じ立場にあるはずだし、その立場から弁護士というポジションにまで登ってきたカスパーは、それだけのガッツや雑草魂も持っているはず。けれど残念な事に、この映画ではそういう辺りを満足に描写出来ていないのだ。また、作中ではカスパーが国内外の様々な土地に足を運び、様々な見知らぬ人と出会いながらこの弁護の仕事に取り組むのだが、折角の異国の美しい風景がちっとも活きていないわ、折角の新しいキャラクターも全然個性を活かせてないわで、観ているこちらの歯がゆきことはちょいちょい山の如しとなるのであった。

それでもなお、この映画を観る価値は私には大いにあった。というのも、鑑賞を終えた時の私にとって、この作品の出来栄えだとか作り手の手腕だとか、そういう問題はいっそ二の次になっていたからだ。
この映画を作ったドイツという国とその国民の偉いところは、やはり、自分たちの過去の過ちを認め、謝罪し、学ぼうとし続けているところだと思う。特に第二次世界大戦で犯した数々の残虐行為を彼らが認めて償いをしてきた事は今や世界中の知るところなれど、自分の母国がかつてどれだけ酷い事をしたかについて具体的に考えたり、昔の出来事の責任を後の世代が背負ったりといった行動に出るには、勇気も要るし、覚悟も要るし、つらいし、まことに困難を伴うものである。とはいえ、そうだとしても償っていく姿勢こそが反省の表れなのであり、誠意の証なのであり、失った信用を取り戻す第一歩となるのだ。たとえば映画一つをとっても、一体どれだけ多くのドイツの作品が自国の歴史を痛烈に批判してきた事か。自分たちの過去の過ちを映画という形で敢えて世界に発表し、猛省と自戒の態度を示し続ける事によって、善良な人間性へと導く道を着々と築いて進んでゆく彼ら。はっきり言って日本とは大違いである。
この作品に関して言えば、ドイツ国民が過去にした事のみならず「しなかった事」の方も題材に取り上げて、その責任の所在を問う内容になっている。即ち、裁くべき戦争犯罪を戦後も裁かずにいた彼ら自身の罪を徹底的に非難しているわけだ。自己批判を恐れない何という勇気だろう、贖罪と対峙する何という誠実さだろう。どうして私たち日本人は、この姿に学べないんだろう。
この映画を作る事でまた一つ善を成したドイツの人々の、その真心を私は讃えたい。そして、それを本作への最大の評価としたい。




# by canned_cat | 2022-05-21 21:03 | ドイツ映画 | Comments(0)


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2019年 UK・カナダ・ハンガリー・ドイツ
4 /5点満点

第二次世界大戦が始まらんとする頃、英国で裕福に暮らすマーティン少年の家に、同い年のユダヤ人の少年・デイヴィッドがポーランドから預けられた。デイヴィッドの天才的なヴァイオリンの腕前を惜しんだ彼の父親が、せめて彼だけは難を逃れて音楽の道に進めるよう取り計らったのだった。
当初はデイヴィッドに反感を覚えるも、やがて本当の兄弟のように仲良くなったマーティン。マーティンの両親もデイヴィッドの才能に惚れ込み、良質なヴァイオリンを買ってレッスンに通わせるなど、熱心に面倒を見た。やがて共に育った二人が21歳になった時、マーティンの父の肝煎りで、デイヴィッドの初めてのコンサートが開催される事になる。新人とはいえ高い評判を呼んでいるデイヴィッドの演奏を聴こうと大勢の名のある聴衆が集まり、大きなコンサートホールは超満員、一流のオーケストラも準備万端調えていたが、どうしたことか、デイヴィッドが姿を現さない。そしてそのまま、彼はヴァイオリンと共に行方知れずとなってしまう。
それから35年の月日が流れ、音楽業界に携わって暮らしていたマーティンは、ひょんな事からデイヴィッドの所在を掴む手掛かりを見つけて、長年決して忘れる事のなかった彼の行方を探す旅に出る。

監督は、『レッド・バイオリン』のフランソワ・ジラール。
35年後のマーティンに、『レザボア・ドッグス』『パルプ・フィクション』『フォー・ルームス』『海の上のピアニスト』『コッポラの胡蝶の夢』『ブロークン』 『クロムウェル〜英国王への挑戦〜』 『或る終焉』『ハードコア』『ヘイトフル・エイト』 『宮廷料理人ヴァテール』 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』『グローリー/明日への行進』『ピート・スモールズは死んだ!』、ドラマ『ライ・トゥ・ミー 嘘は真実を語る』のティム・ロス。
同じくデイヴィッドに、『キング・アーサー』 『ゴスフォード・パーク』 『イントルーダーズ』『エリザベス:ゴールデン・エイジ』のクライヴ・オーウェン。
ヘレンに、『ブレイブハート』『マジック・イン・ムーンライト』のキャサリン・マコーマック。


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監督のフランソワ・ジラールは、以前にもヴァイオリンを題材にした映画『レッド・バイオリン』を発表している。他にもソプラノ歌手の物語『ボーイ・ソプラノ ただひとつの歌声』などを手掛けてもいるし、どうやら音楽にまつわる映画を撮るのが好きな御仁のようだ。

今作はといえば、なんだか『ビルマの竪琴』みたいなお話だった。主人公たちの少年期及び青年期のストーリーと、35年後の「現在」がちょうど半々くらいの割合で描かれている。
マーティンにとってデイヴィッドは、兄弟であり、無二の親友であり、偉大な才能に恵まれた憧れの人であり、自分以上に両親から大事にしてもらっているちょっぴり妬ましい存在であり、そして何よりも、彼の自慢であり誇りであった。デイヴィッドの方はというと、いつも堂々として自信に満ち、天才ゆえに不遜な態度をとりがちなところもあれど、強力な引力と輝きに満ちている人物。マーティン一家とは仲良くやっている一方で、当然、消息不明の実の家族の事も常に気にかけている。マーティンの父親というのがとても良く出来た人で、ユダヤ教徒であるデイヴィッドがいつでも教義に則って暮らせるように気を配ってくれていたわけだが、しかし青年期のデイヴィッドは、ある日「生き抜くために」信仰を捨てる。血筋的にユダヤ人である事には一生変わりなくても、ユダヤ教徒である事はやめようと彼は決意したのだ。それというのも、やはりヴァイオリニストである知人のユダヤ人が、家族がホロコーストの犠牲となった事を受け止めきれずに壊れていったためだった。恐らくデイヴィッドは信仰を捨てる事で、自分は悲劇に足をすくわれずに強く生きてゆこうと決めたのだと思う。
が、そこまでして英国で音楽家になって生きていこうとしていた矢先に、彼は行方をくらます。それもこの上なく大事な初めてのコンサートの日に、限りなく恩義のあるマーティン一家を置いてきぼりにして。彼の生死さえもわからない状態のまま、マーティンの父親は失意の底に沈み、ほどなくして亡くなったという。この出来事を、35年経った「現在」でもマーティンは引きずっていた。それは無理もない。マーティンは21歳の時からずっと、驚愕、悲しみ、怒り、心配、恨み、戸惑い、寂しさといった感情の嵐に見舞われ続けて生きてきたのだろう。

で。この映画の情報にはどれも「主演、ティム・ロス&クライヴ・オーウェン」と大々的に書いてあるので、私としてもネタバレだとは思わずに言おうと思うのだが、結局、クライヴ・オーウェンの姿となってデイヴィッドは見つかる。あの日何があったのか、一体全体どういう理由で一切の消息を絶つ事になったのかが、35年を経てようやく彼の口から静かに語られてゆく。まさにこの辺りが『ビルマの竪琴』の水島上等兵的な部分であり、観客を一番泣かせる見せ場の部分でもある。それはまあ良いのだけれども、しかしユダヤ教という名のコートを脱ぐのはデイヴィッドにも一大決心が必要だっただろうに、結果的にはそれをすぐに羽織り直す事になっていたわけで、デイヴィッドのその行動にはちょっと矛盾を感じてしまった。もちろん、人生には一度捨てたものを拾い直す事だってあるし、一度大きな決心をしたとしても、後々それをひっくり返す更に大きな決心の必要に迫られる事もあろう。それはべつに構わない。だが、その点を聴き手に納得させるだけの説得力のある描写が欲しかったというか、語り方次第でこの物語はもっとドラマティックになり得ただろうに、中途半端にまとめてしまったなあ、という残念な気持ちが個人的には拭えない。だいたい、マーティンとデイヴィッドの再会後の展開もあれで良かったのだろうか。確かにデイヴィッドには何らかの落とし前をつけてほしいところだけど、でも「コンサート」は果たしてその答えだろうか?

とにかく、せっかく水島上等兵が出て来たのにいまいち感動できずに終わってしまった、みたいなこの消化不良な感じをどうにかすべく、本作に対する自分なりの解釈を、鑑賞後に頭の中で色々捏ねくり回してみた。多分、幼い頃から高い技術を持ち、少し高慢な性格で、自分がヴァイオリンの天才である事にもプロの音楽家になる事にも少しも疑いを持たずにいたデイヴィッドが、何もかも捨ててでも心身を捧げたいと初めて思った音楽の道、それが「鎮魂」だったのだと思う。死者たちの名だけを刻んだ、楽譜に起こされる事もなければユダヤ人以外が知る事すらない歌「The Song of Names」(本作の原題でもある)と、一人の至上の演奏家との悲しき出会い、それがこの物語の本質だったのではないかと思う。私としては、そんなデイヴィッドの心情をもっと深く得心しながら、マーティンとデイヴィッドの友情に別れを告げられなかった事が、ただただ惜しまれる次第である。




# by canned_cat | 2022-05-07 18:09 | その他地域映画 | Comments(0)