人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『ベオウルフ』


『ベオウルフ』_f0324790_18464921.jpg


2005年 カナダ/UK/アイスランド/USA/オーストラリア
3.6 /5点満点

西暦500年頃。強国として世界にその名を轟かせていたデネ(現在のデンマーク)では、王フロースガールによって、デネの繁栄を象徴する大きな館が建設されていた。だが丁度館が完成したその夜、突如巨人のグレンデルがどこからか姿を現し、人々に襲い掛かる。グレンデルは幼い頃に父をフロースガールの軍隊に殺され、その恨みを持っていたのだ。
それからというもの、グレンデルは毎晩彼らの館を襲うようになり、圧倒的なパワーを持つグレンデルにフロースガールの兵は次々と殺されてしまう。フロースガールをはじめ、デネの人々は夜毎グレンデルの脅威に怯えねばならず、最早国の命運は風前の灯火であった。
そこへやって来たのは、デネの友邦国イェーアタス(現在のスウェーデン)の若き英雄、ベオウルフ。フロースガールの危機を聞きつけ、十余名の精鋭と共にデネに乗り込んだ勇猛な戦士ベオウルフは、士気も高らかに巨人退治に臨むのだったが……。

ベオウルフに、ジェラルド・バトラー。
フロースガールに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』『キング・アーサー』のステラン・スカルスガルド。
セルマに、『スウィート ヒアアフター』『あなたになら言える秘密のこと』『バロン』『エキゾチカ』『死ぬまでにしたい10のこと』のサラ・ポーリー。


『ベオウルフ』_f0324790_19492230.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_19575446.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_19582457.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_19584238.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_19585476.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_19595340.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_20000606.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_20003596.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_20005222.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_20014616.jpg

『ベオウルフ』_f0324790_20023000.jpg



ここ10年の間にものされたベオウルフ映画は本作を入れて2本あるようだが、此方は2005年製作のジェラルド・バトラー版。
まずは題材の「ベオウルフ」について、少し。
『ベオウルフ(ベーオウルフ)』は、英国最古の文学作品の一つとされる叙事詩らしい。作者も成立時期も未詳で、大まかに言えば8~10世紀の辺りに成立したと云われている。叙事詩であるから、元々は詩人達によって口承されてきた説話であり、更に元を糺せば大昔にグレートブリテン島に移動してきたアングロ・サクソン人(或いはヴァイキング。この辺の事は私にはよく解らないが、どちらにせよゲルマン系民族には違いない)によって、現在の英国に持ち込まれたものだと見られている。物語の舞台が北欧なのは、そのためである。
当初文字を持たない人々の間で口伝されてきたベオウルフの物語は、やがて写本として文字で記録される事となった。現存する唯一の写本(大英図書館所蔵)は古英語で書かれており、歴史的価値があるだけでなく言語学的にいっても貴重な資料だという。
叙事詩つまり韻文は、必然的に散文よりも簡素な内容と言え、加えて『ベオウルフ(ベーオウルフ)』は怪物や魔物などを扱った他愛無い説話であったために、嘗ては歴史及び言語学資料としての価値しか持たなかった。然しそこに文学的価値を見出したのが、あの『指輪物語』の作者であり英国の文献学者であったトールキンである。彼のベオウルフ研究は後の研究者達に大きな影響を齎し、そして『ベオウルフ(ベーオウルフ)』は彼自身の創作にも多大な影響を与えた。現在では『ベオウルフ(ベーオウルフ)』は、あらゆる西洋ファンタジーの原型的存在と考えられている。
さて、肝心の『ベオウルフ(ベーオウルフ)』の内容であるが、これは二部構成となっており、第一部は若きベオウルフの巨人グレンデルとの戦い、第二部ではそれから50年後の、老境に入ったベオウルフのドラゴンとの戦いが語られるそうだ。この2005年の映画『ベオウルフ』は、第一部のお話のみを描いた作品である。


本題に入ろう。
本作は、一言でいえば一長一短。元から『ベオウルフ(ベーオウルフ)』フリークの方々であるとか、或いは私のような北欧モノ好きの人、乃至はコスプレ映画好きの方などにはそれなりに向いているかもしれないが、そうでない方にはあまりおすすめ出来ない映画かもしれない。

長所として挙げられるのは、第一に役者陣だ。ベオウルフを演じたジェラルド・バトラーは美男子な上に非常に風格があり、威風堂々とはこういう事かと思い知らされるような、見事な主演っぷりだった。何をしても様になるし、絵になる。英雄とは、是非ともこうあってほしいものである。
ステラン・スカルスガルドなどは当然、何をやっても上手い役者である。彼は190センチを超える長身だから、元々はグレンデルを演じたイングヴァール・シガードソンとどっこいどっこいぐらいの(IMdbに拠れば寧ろシガードソンの方が小さい 笑)体格の持ち主なのだけれど、本作では成す術もなく国が滅びゆくのを眺めて自暴自棄になった哀れな老王になりきっていて、いつもよりずっと貧弱に見えた。とはいえ王の貫録は充分窺え、その力強い目元からは嘗ての名君としての片鱗もしっかり覗く。
そして、私も大好きな女優サラ・ポーリー。彼女はどんな時でも全幅の信頼を置ける実力派女優だ。演技力が高いだけでなく、この人には雰囲気がある。ちょっとクールな持ち味も素敵だ。本作で彼女が演じているのは、人の死を予見する事が出来るという”魔女”、セルマ。デネの人々からは距離を置いて(置かれて)いるが、巨人グレンデルの唯一の理解者であり、またグレンデルとベオウルフらを繋ぐ一種の橋渡し的存在にもなる女性である。このセルマという人物はオリジナルの『ベオウルフ(ベーオウルフ)』にも登場するのか、それとも本作だけに限られたキャラクターなのかは不明だけれども、サラ・ポーリーには似合いの役どころだった。何より、グレンデルが単なる「悪」ではなしに、セルマと同じ様にコミュニティから除け者にされた孤独な存在であるという事が、彼女自身の存在によって浮彫りとなる。
そも本作に於けるグレンデルは、巨人といっても所謂「モンスター」の類ではない。彼は人間と殆ど同じ容姿をしているので、人並み外れて大柄な種族、という程度の印象だ。但し知能は人の平均より低く、デネ人の言葉も解しない。本能によってのみ行動するため、その生態は動物のようでもあり、幼い子どものようでもある。簡単に言えば、子供の心を持った大男、というわけだ。本作ではこのように彼をピュアな存在として描く事で、”バケモノ”扱いされてコミュニティから迫害される者の哀れや、文明社会の傲慢さが引き起こす悲劇といったものを、皮肉を込めて映し出す事に成功している。こうした現代的なストーリー解釈も、個人的には興味深かった。

第二の長所は、素晴らしい景観である。主にアイスランドやカナダで撮影されたという、雄大にも程がある圧倒的な風景の数々。それが全編に亘って遥々と映し出される様は、全く以て壮観だった。何処も彼処も荒涼としていて、北国ならではの寂寞たる情景を感じさせてくれる。そこがまた良いのだ。この映画は日本では劇場未公開だったそうだが、少なくともあの果てしのない景色を映画館の大スクリーンで観られるチャンスが与えられなかった事は、惜しまれるように思う。

では欠点は何か。それはストーリーがどうにもシンプルすぎる点だ。
独自の解釈は加えているにしろ、結果的には一通り原作の筋書きを追っただけという印象で、物語に深みが感じられない。お蔭で、折角良い役者と見応えのあるロケ地を用意しているのに、そのどれも今一つ活かしきれていない感じがした。
具体的なエピソードを挙げるなら、例えばベオウルフとセルマの関係は何がしたかったのかよくわからず終いだったし、グレンデルの母親の存在もとても中途半端。ベオウルフがグレンデルを追っ払った後、彼の母親(やはり巨人)が真打ちのように登場するのだけれど、それまで母親については一言も言及されていなかったため彼女の登場は妙に唐突に感じられ、然しその割には随分あっさりと退場してしまうのである。
恐らくこの映画は、オリジナルの『ベオウルフ(ベーオウルフ)』ありきで――即ち、観客がオリジナルに対して一定の知識を持っている事を前提に作られたのではないだろうか。日本では『ベオウルフ(ベーオウルフ)』は馴染みがなく、事実私も本作を観るまでその内容をちっとも知らなかったけれども、西洋ではかなり有名な作品だと聞く。推測するに、誰もが簡単な粗筋ぐらいは知っている古典中の古典なのではないかと思う。だからきっと、グレンデルの母親にも一切の説明は不要だったのだ。『ベオウルフ(ベーオウルフ)』の第一部は、ベオウルフとグレンデルの母親との決闘で幕を閉じるものと最初から決まっているのだから。したがって、若し私が予め『ベオウルフ(ベーオウルフ)』に関する知識を些少なりとも持っていたら、或いは本作に対する感想も、もう少し違ったものになったかも知れない。

オンライン書店などでオリジナルの『ベオウルフ(ベーオウルフ)』に寄せられたレヴューを読むと、”つまらない”とか”退屈”といったネガティヴな感想もそれなりに目立つ。何せ『ベオウルフ(ベーオウルフ)』はめちゃくちゃ古い時代の作品であるし、先ほど述べた通り叙事詩という特殊な形態でもあるわけだから、内容が多少味気なかったとしてもそれ自体は無理からぬ事だと思う。
然し翻ってそれは、翻案作品を作る場合には幾らでも解釈・味付けのしようがある美味しい素材だという事になる。実際、「ベオウルフ」は題材としては非常に面白い。そう考えると、これまでに製作されたベオウルフ映画の数が決して多くない事は、些か不思議な話ではある。




by canned_cat | 2015-03-11 23:21 | その他地域映画 | Comments(0)