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『蝶の舌』


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1999年 スペイン
4.6 /5点満点

病弱の少年が心優しい先生との交流を通じて成長していく姿と、二人がスペイン内戦という荒波にもまれて迎える悲劇のときを描いた感動のドラマ。
1936年、冬の終りを迎えるガリシア地方の小さな村。喘息持ちで皆と一緒に一年生になれなかった8歳の少年モンチョ。初登校となったこの日、モンチョは怖さのあまり教室から逃げ出してしまう。そんなモンチョをグレゴーリオ先生は温かく迎え、単なる勉強ではなく、自然界の驚きに満ちた仕組みや美しさを教えてくれるのだった……。(allcinemaより引用、一部加筆)

モンチョにマヌエル・ロザーノ。
グレゴーリオ先生に、『ミツバチのささやき』のフェルナンド・フェルナン・ゴメス。


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スペイン内戦を扱った映画には、良作が多い。本作もその一つである。
といっても、この映画の舞台は内戦前夜のスペインが主であり、戦争に関わるものものしいシーンなどは終盤まで殆ど顔を出さない。寧ろ、大半が牧歌的な光景に満ちている。それは例えばモンチョとグレゴーリオ先生との温かい交流や、課外授業での和かな自然との触れ合いや、先生が教えてくれる、人生や死や愛や文学について、或いはモンチョの淡い初恋であるとか、サックス奏者の兄と共に小旅行に出掛けた思い出などである。長い冬が終わり、生命がきらめきだす眩しい春の季節に、モンチョは家族や先生や友達に囲まれながら、初めてづくしの経験をその小さな体いっぱいに吸収するのだ。
すべては主人公の幼い少年の目を通して描かれるため、その頃<大人の世界>では何が起きていたのか、はっきりとは語られないまま物語は進んでいく。だが、最後の最後になってついに内戦が始まり、モンチョの目に映る世界の色が一変した時、私たちは初めて、不穏なファシズムの影が彼らの背後にずっと忍び寄り続けていたこと、そしてそれが、深刻な異変を来して初めてその存在を知る物言わぬ臓器のように、秘かに長い沈黙を続けていたことに気づかされるのである。

グレゴーリオ先生は非常に高潔な人物で、素晴らしい教師であった。が、同時に彼は無神論者でもあり、更には共和主義者でもあった。それは、少なくともこの時代のスペインでは大いなる危険を意味していた。
スペイン内戦は、当時のスペイン第二共和国政府に対する軍のクーデターが引き起こした戦争で、1936年から1939年まで続き、最終的には反乱軍(ナショナリスト派)が勝利して第二共和国政府は倒され、ここからフランコの独裁政権が始まる。当然、時の情勢からすれば共和主義者は危険因子と見做され、犯罪者として厳しく処罰された。
当初は村の多くの人々から慕われていたグレゴーリオ先生も、やがて戦争が近づくにつれて一人また一人と彼の許を離れていき、ついには教職を解かれる事になる。そしてモンチョは、先生と悲しいお別れをしなければならなくなるのだ。タイトルにもなっている「蝶の舌」は、モンチョが先生に教わった中でも特に関心を示した蝶の生態についての話を指すが、先生との別れの場面でも非常に重要な意味を持つ、この作品のキーワードである。

昔、『サウンド・オブ・ミュージック』を原作にした『トラップ一家物語』というアニメがあった。その中で、反ナチスのトラップ家の子供達が、学校で「ハイル・ヒトラー」を唱和させられる際、こっそり「アヒル・コケたー」と唱えてその場をやり過ごすというエピソードがあったのを憶えている。本作の最後にモンチョが叫んだ台詞を聞いた時、ふと、そんな事を思い出した。
ラストのモンチョの台詞は、この物語で描かれる悲哀を最も象徴し、また観客に最も衝撃と感動を与えるものである。
その直前にスクリーンに映し出されていたのは、戦争の哀しさとファシズムの愚かさ、そしてそれに伴う人々の狂気。奇しくもグレゴーリオ先生が”あの世に地獄などない、地獄は人間が作るものだ”とモンチョに語って聞かせた事があったけれど、まさにその通りの地獄絵図(物理的な地獄というよりも、心理的な地獄を感じさせる)が繰り広げられていた。そんな中、最後にモンチョがグレゴーリオ先生に向かって投げかけたあの台詞は、一際切なく私たちの胸を打つとともに、この物語に対する最大の赦しにもなっていたように思う。
まだ頑是ないモンチョはきっと、ラストシーンで自分がした事の意味がよくわかっていなかったに違いない。衆人という大きな波に呑まれて、見様見真似であんな事をしてみせただけなのだろう。然し、だからといって彼が何も感じなかった訳はない。彼なりに、悲しみや、寂しさや、戸惑いや怒りを感じていた筈だ。その結果が、あの台詞となって表れたのだ。無邪気に礫を掴んだモンチョからは、子供の残酷さ、延いては子供にそうさせた大人たちの残酷さが伝わってくるが、同じ無邪気さで彼が発した最後の言葉たちからは、この残酷な世界にも確かに存在する、僅かな救いを感じさせる。否、そもそも彼が罵倒し礫を投げた相手は、果たして車に乗せられた人々の方だったのか、それとも車を運転していた人達の方だったのか――。
モンチョから遠ざかりながら、きっと彼の最後の言葉を耳にしたであろうグレゴーリオ先生の気持ちを、映画を観終わった後暫く考えていた。





by canned_cat | 2015-03-05 21:29 | スペイン(系)映画 | Comments(0)